アルベルが追いついてタクシーの窓を叩いた。杏奈は運転手に「だして!」と告げ、顔を覆った。アルベルの顔を見たくなかったのだ。
タクシーは名前を呼び続けるアルベルを残して、夜のフィレンツェの中に走り出した。
どうしてこんなことになるのだろう。
杏奈の目から涙がこぼれる。あんなに楽しい1日だったのにだいなしだ。
花の都フィレンツェ。前にイタリアにきたときは夏で、母親と一緒だった。ローマ・ミラノ・ナポリという観光コースで、自由行動はローマの夜だけだった。
旅行のためいろいろな資料を見ていた杏奈は、ぜひフィレンツェに行きたいと思ったが、当時はそんな時間がなかった。
それから5年、杏奈は不動産を扱う会社の営業事務として働き、ようやく長期旅行のための資金と休暇を得ることができた。時期外れの秋だというのも旅費が安くてよかった。
こうしてひとり旅で好きな場所を満喫することができるのも、コツコツまじめに仕事をしてきたおかげだ。
フォレンツエは石とレンガでできたおもちゃの国のようだった。赤い屋根がぎっしりと並び、こじんまりとしていながら奥深い魅力がある。
通りもお店も、ミラノのように大きかったり派手だったりしないが個性的で楽しい。ショーウインドウに並ぶさまざまな商品は、どれもこれも芸術品のように美しかった。
この町全体が宝石箱のようなんだわ、と杏奈は思う。
町の作りも、壮麗なウフィツィ美術館も、緑濃いボーボリ庭園も、宝石・金銀細工の店が並ぶヴェッキオ橋も、どこかしこも魔法の国のようだ。
その中で1番の魔法は彼――アルベル。
ぎゅうっと胸が痛くなる。
会って1日しかたっていないのに。
でも恋に落ちるなんて1日で十分だ。そう思ったのに。
彼にとってあたしはただの遊び相手、頭と尻の軽そうな日本人旅行者に過ぎないんだわ。
そうよ、旅先のアバンチュール、恋なんてできるわけないでしょう。
あたしだって彼だって、自分の国がある。旅が終われば帰るんだもの、
本気になったあたしが馬鹿だったのよ、ぶたれて馬鹿って言われるのはあたしの方だわ。