第3話

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2022/08/11 11:00
 結局彼は杏奈の選んだガーベラのブローチを買った。白い紙袋に入れてもらったそれを彼は大事にかばんの中にしまった。
???
ところで君はそれを買わないのかい?
 彼は杏奈の手元を見つめて言った。それで杏奈はようやく自分がネックレスを持ち続けていることを思い出した。
杏奈
やだ、あたしったら
 杏奈はあわててネックレスを戻した。
???
買わないの?
杏奈
ええ、ステキだけど……こんな豪華なネックレスをつけていく場所がないわ
???
そうなのかい? デートとか、パーティとか……
 杏奈は笑い出した。
杏奈
パーティなんて、そんなの行ったこともないし、デートも……
???
デートも?
 まじまじと覗きこまれて杏奈は彼がとても魅力的な男性であることに気づいた。
栗毛がやわらかく額にカールを描き、青い目は澄んで、絵に描いたような高い鼻とセクシーな唇の持ち主だった。
 こんな男性ならきっと彼女も美人に違いない。そしていつもステキなデートをしているのだろう。
 杏奈は顔を赤らめた。自分がもてないと見ず知らずの男性に告白することはない。
杏奈
そんなのあなたに言う義務はないわ
 杏奈は目をそらせて背を向けようとした。
???
ちょっと待って
 彼は笑って追いかけてきた。
???
ごめんごめん、いきなり失礼だったかな。君は日本人? 僕はスイスから来てるんだけど
杏奈
スイス?
 間近で立って向き合うと、彼はとても背が高い男性だった。
???
スイスで時計を作っているんだ。フィレンツェには古い時計がたくさんあるんだよ
杏奈
時計屋さんなの?
???
時計『技師』です
 彼は胸に手をあててうやうやしくお辞儀をした。
アルベル
アルベル・ジュールディと言います
杏奈
あ、杏奈……、杏奈・緑川です
 思わず名乗ってしまった。どうも彼にはリードをとられてしまう。
アルベル
アンナ? ステキな名前だ
杏奈
あ、ありがとうございます
アルベル
それでアンナ、ブローチを選んでくれたお礼をしたいんだ。よかったら一緒に食事でもいかがですか?
 アンナはあっけにとられてしまった。今出会ったばかりの女性を誘うなんて、これがヨーロッパ流なのだろうか。
杏奈
あの、でもあたし──
アルベル
ああ、それとも友達と来ているの? 家族とか
杏奈
いいえ、ひとりだけど──
 言いかけてあわてて口を押さえる。アルベルはにっこりした。
アルベル
僕もひとり旅なんです。実はパンフレットで見つけたいいお店があるんですが、さっき覗いたらカップルばかりでね、どうも入りづらくて。君が一緒に食事をしてくれるととても嬉しいのだけれど
 アルベルはかばんの中からパンフレットを取り出してページを開いた。
 アルファベットで書かれたそれは杏奈には読めなかったが、確かにレストランの写真が載っている。掲載されている料理はとてもおいしそうだった。
アルベル
どうかな――きのこ料理がとてもおいしそうでぜひ食べたいんだ
 首をかしげて見つめる彼の顔は無邪気だった。
 たぶん、日本でなら杏奈もこんな誘いに乗ることはなかっただろう。しかし、異国にひとり、という気持ちが彼女を大胆にさせた。
 どうせ明日には会わない人だし……晩御飯は食べようと思っていたのだし。
杏奈
……いいわ
 うなずくとアルベルはやった! とばかりにガッツポーズをとった。その様子がとても嬉しそうだったので、杏奈は思わず笑ってしまった。

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