温泉は手作り感のある露天風呂だった。
岩が積み重ねられた湯船で、きれいな乳白色の温泉から湯気が立ち上っている。
上を見上げれば木の小さな屋根があった。
落ち着く空間でまどろみ、温泉から上がった。
少し遅くなってしまい足早に戻る途中、庭で曇り空を見上げる彼がいた。
家に入ろうとしたところで彼の呼び声に振り返ると、すぐに視界は閉ざされ抱きしめられているとわかった。
離れる間際、彼の唇が頬に軽く触れ、可愛いリップ音が響いた。
体は急に熱を発し、蒸発してしまいそうなほど恥ずかしい。
彼から目を離せないでいると、また、空を切なげな眼差しでみつめていた。
なにか悩んでいるのはひと目見てわかるけど、彼から何も言わないということは、きっと言いたくないのだろうと思う。
彼がどんなことを思い悩んでいるのか、思考だけはぐるぐると回る。
しかし、私は暖かい部屋でまどろんでしまい、いつのまにかソファで眠っていた。
広大な草原の中に私は一人立っていた。
空で瞬く数億の星が、今にも降り出しそうなほど輝きを放っている。
ふと目の前をみると、そこには彼もいた。
駆け寄って名前を呼ぶが、いくら近づこうとしても距離は遠のくばかり。
ぬかるんだ泥が足を奪い、躓いた瞬間に足元には大きな穴が出来ていた。
彼が私の方に振り返り、やっと気づいてもらえたと思った時――。
バッと上体を起こすと、私は大量の汗をかき肩で息をしていた。
鳴り響く着信音に気付きスマホをとると、彼女の名前が表示されていた。
敷かれている布団や部屋の中を見渡すが、そこはもぬけの殻だった。
窓ガラスは白く曇り、外は雪が降っている。
夢のような現実はあっけなく崩壊を迎え、彼は私の前から本当に姿を消してしまった。
家の中にはどこにもいなかった。
もうきっと、ここにはいない。
捜し回っている私に気付いたのか、おじいさんが縁側から声をかけてくれた。
私は安心するどころか、焦って雪の降る外へ飛び出した。
雪は降り積もり、いくつもの足跡がうっすらと残っている。
どれが彼のものかなんてわからなかった。
ただ走り回って、転んで、見えもしない彼の姿を追い続けた。
けれど、彼の痕跡さえ見つけることはできず、諦めかけた時――。
寂しそうにぽつん、と、開いたままの傘が転がっていた。
それはどこにでもある黒い平凡な傘で、けれど、目が離せなかった。
その先には坂が見え、山につながっている細道だとわかる。
それが彼のものだという確証はないけれど、私は疑いもせずにそうだと思った。
上着も着ていない浴衣は風を通し、雪でぬれて体温が奪われていく。
しかし、足は思うように動かなくなっていた。
雪の下に隠れていた木の根に足を奪われ、私はその場に転げて座り込んでしまう。
彼の声が聞こえ辺りを見渡すと、先にある開けた場所で横たわっている彼がいた。
私は転びそうなのも気にせずに走り寄って、彼の手を握る。
彼の手は私よりも冷たく冷え切っていた。
彼は私から目をそらし、そっぽを向いてしまう。
どんな表情をしているのかもわからないけれど、手も声も震えていた。
顔が見えなくてもわかる。
こんな彼の姿は初めて見るけれど、……きっと、泣いている。
パ
シ
ン
ッ
!
私と彼は、手をつないで雪の中で横たわった。
空からパラパラと落ちてくる雪は、次第に激しさが増していく。
意識を手放す直前、雪の降る冬なのに、森の奥に蛍が見えた気した。
☆
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!