それからいくらか時間が経ち、ふと見上げた空は夕焼けの茜に染まっていた。
今、この病室には俺以外に誰もいない。
母は、俺の病状の詳細な説明を受けるため、20分ほど前に、医師の神崎と共に病室を出た。
そして、
隣のベッドに横たわる少女が、俺の傍らに居続けているだけ。
その白い横顔は整っていて、微笑んだらどれだけ綺麗だろう、だなんて的はずれに思う。
息をしない彼女に、俺は謝った。
聞こえない、なんてことは分かっている。
だけど、彼女を忘れてしまったことが、酷い罪のように思えたから。
今までの記憶を忘れたこと――それは俺だけの苦しみではない。
俺に忘れられた人たち。
母をはじめ、俺を大切に思っていたであろう人たちが、それまで自分がしてきたことを忘れられたと聞いて、悲しむ人がいるだろう。
きっと、月花だって。
彼らの悲しみを拭うのは、俺が失った記憶を取り戻し、月花の死を悲しんで、
――それから、以前と変わらずに、笑うことだ。
病室のドアを開いて、母が帰ってきた。
その表情が晴れないのは、説明された俺の病状が芳しくなかったからだろうか。
「一晩寝れば治る」みたいな、易しい状態でないのは分かっていた。
でも、何かの拍子に記憶の枷が外れ、全てを思い出せる――そんな奇跡に、淡い期待を抱いた自分がいたのは否めない。
眉を寄せ、手で頭を抱える母。
何も知らない俺には、どう声をかけていいかも分からなかった。
ただ母を見つめることしか出来ない。
自分なりに、記憶を辿る方法を思案していた。
そして、ある程度の答えは出ている。
だけど、それはあまりにも曖昧で、成功するかどうかも不確かなもの。
何かのために1歩を踏み出す。そんなことでさえ、白紙の世界では恐ろしいことに思いえるのだ。
思考を彷徨って、迷って、躊躇って――
――そんな視界の向こうに、眠る月花が見えた。
物言わぬ彼女の横顔を見つめた。その表情は、いつまでも変わらない。
彼女の笑った顔が見たい。
彼女の怒った顔が見たい。
彼女の泣いた顔が見てみたいと、思った。
エゴ、なのかもしれない。
だけど、そんな感情に、欲しかった背中を押す感覚を得た。
まだ見ぬ月花に、1歩を踏み出す勇気をもらったから。
視線を上げた母に、俺はそう言った。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。