前の話
一覧へ
次の話

第1話

無自覚10years
66
2019/01/06 13:24
 桜の散りきった、四月の放課後だった。神田柚姫_かんだゆずき_が同級生の友人小松唯花_こまつゆいか_と本屋に入った時、彼女の視界を見知った後ろ姿が掠めた。が、その人物の状況を察知した柚姫は彼の背中に声を掛けようとはしなかった。…結局、彼の方が柚姫を放っておいてはくれなかったが。
「柚ちゃん、何してんの?」
「…買い物」
「ふーん」
柚姫のすぐ横にやって来たのは、中性的な美少年といった容姿を持つ中学生だった。ただし、柚姫は彼に対して美しいという印象を殆ど持っておらず、生意気で我儘で小賢しいという印象ばかりが際立って強いのだが。
「じゃ、おばさんによろしく」
「こんにちは」
さっさと追い返してしまおうという気満々の柚姫の言葉を無視し、中学生は柚姫の奥にいる唯花に挨拶をした。
「こんにちは~。可愛い!えっ?柚姫、知り合い?」
突然の美少年登場に色めき立った友人の質問に、柚姫はいかにも面倒臭そうな態度で答えた。
「私の知り合いっていうより、九重_ここのえ_兄弟の弟」
「冬志朗_とうしろう_です」
紹介された少年、九重冬志朗はよそ行きの完璧な笑顔を唯花に披露した。
「まじで…?九重、三…四兄弟、半端ない…」
唯花は今度は美少年の笑顔にのぼせることなく、驚愕の表情を露わにした。柚姫は心の中で友人に一部同意した。そう、彼らの見た目は半端ない。そこは認めざるをえない。
「何買おうとしてるんですか?」
冬志朗は塩対応の柚姫にではなく、初対面の唯花に聞いた。
「ルーズリーフと替え芯。私の買い物に柚姫が付き合ってくれてるの」
「へぇー。柚ちゃん、これ終わったらどうするの?帰るの?」
柚姫が返事をしかねていると、唯花が代わりに答えてしまった。
「お腹空いたから、ちょっとなんか食べてこうかって二人で話してたトコ」
「それ、俺もついてっていい?」
「ダメ」
柚姫は即答で断った。女子高生同士の会話の場に男子中学生はいらない…というのも理由のひとつだったが、それよりも明確な断るべき理由が冬志朗の背後にあった。
「九重くん…誰?」
柚姫の目線の先、冬志朗の肩越しから人気アイドルにも劣らぬ美少女が近づいてきた。彼女が着ている制服から見るに、冬志朗と同じ中学の生徒。そして、柚姫に向ける嫉妬のオーラから中学生二人が彼氏彼女であると窺い知れた。
「あぁ、柚ちゃん。いつも話してんだろ」
「…どうも」
「…どうも」
美少女に睨まれるって、敵意を持たれるって…辛い。柚姫は口元を引き攣らせながら会釈した。 そして、しばし無言の間。柚姫は肘で冬志朗を小突き、「彼女は?」と小声で紹介を促した。
「同じクラスの栄田_さかえだ_」
おい。付き合ってるってこともちゃんと言ってやれよと今にも口に出してしまいそうになった柚姫だったが、それをしてしまっては
更に気拙い空気になること必至だったので、取り敢えず無難なゴマを擦っておくことにした。
「すっごい可愛い子じゃん」
敢えて彼女に向かってではなく冬志朗に褒め言葉を言ったのだが、彼は模範解答の「うん。可愛いだろ、俺の彼女」という返事も、腹立たしくもギリギリ合格点の「柚姫よりはな」というセリフも返さず、ただただ無反応であった。
その場に居づらくなった柚姫は、それでも栄田という女子中学生に挨拶無しに去っては失礼かと「冬志朗をよろしくお願いします」とでも言っておこうと考えたが、そんなことを言って「家族でもないあんたが言う?」となってしまっては藪蛇なので、今更ながら二人を避けるように唯花の袖をつまんで「じゃ、行こうか?」とレジに向かった。
「俺も行く」
「ちょっと、九重くん…」
「受験生は真面目に参考書探し、続けなさい」
二人同時に言われた冬志朗には、柚姫の言葉の方が届いたらしい。
「……柚ちゃん、俺を無視しようとしてたな!」
冬志朗は恨みがましく柚姫を睨みはしたが、女子高生二人を追おうとはしなかった。


本屋を出た柚姫と唯花は商店街の通りの向いにあるハンバーガーショップに入った。カウンターで各々注文し商品を受け取ると、テーブル席で合流した。
後から来た唯花が席に座った途端、言った。
「凄い可愛い顔してたね」
「ね。女子中学生の進化は凄まじい」
「まだJKなのに、それを言うか…じゃなくて、女の子も可愛いかったけど、それより冬志朗君の方」
「ああ…」
柚姫はハンバーガーの包みを広げ始めた。
「反応うっす」
「え、だって、小さい頃から知ってるから。あ、でも小さいころから確かに可愛かった。つい最近まで女の子に間違われるのしょっちゅうだったし」
「やっぱり?華奢で繊細な感じだもんね。兄たちとは違う見た目の良さ」
柚姫はぼんやりと兄三人の顔を思い浮かべた。うん。奴らも見た目は良い。見た目はいいんだけどなぁ。
「冬志朗君、柚姫のこと好きなの?」
「え?さっき彼女連れてるの見たでしょ?んな訳ないじゃん」
「…むしろ、彼女への態度を見たから思ったんだけど。彼女より柚姫が優先っていうか、大事っていうか…」
「は?無いよ。無い無い」
「そっかなー」
柚姫が完全否定しても結花は納得できないようで、手にしたハンバーガーにも口をつけず柚姫を凝視し続けた。その状態で大口開けて食事を続けることは柚姫には少々憚られ、柚姫は面倒な話が続いてしまう展開を危惧しつつ、渋々口にした。
「結構前…確か、あの子がまだ小学校の低学年だった頃、九重家のお母さんがからかってシロちゃん…あだ名ね、に聞いたの。『そんなに柚姫ちゃんに懐いて、冬志朗は柚姫ちゃんにお嫁にきてもらうつもりなの』――…って」
「ずいぶん古すぎる話だけど、まぁいいや。で、なんて答えたの?シロちゃんは」
「『僕のじゃなくてお兄ちゃんのお嫁さんに来てもらう』だってさ」
唯花は一旦上を見上げ、そうしてから再び真正面の柚姫に視線を戻した。
「ん?」
「彼としては、可愛くて美人な子がタイプだからそういう子を自分のお嫁さんにし、私の方は義理の姉にしたいのだそうだ」
言い終えると柚木はハンバーガを頬張り、ジンジャエールを飲み、フライドポテトを屠った。唯花が口を開いたのは柚姫の一連のローテーションが三周目に突入しようとした時だった。
「好かれては、いるね」
「まぁね」
その自覚はある。しかし、本屋であったような態度は困る。自分を交際相手に不安を与える要素にしないで欲しい。十分前の出来事思い出した柚姫は、眉を顰めながらポテトを高速で食した。
「でもさ、それならお兄さん三人のうち、誰と結婚して欲しいんだろ?」
「誰でもいいんじゃない?」
「そう言わないでさぁ。あ、じゃあ、柚姫は?三人だったら誰選ぶ」
柚姫は眉毛を顰めるのに留まらず、今度はまなじりを吊り上げた。こういった話しを振られるだろうから、先程の想い出話も話したくなかったのだ。
「……誰も選ばないけど?」
「例えばの話だよ。誰にする?えーと、じゃあ、長男から。九重先生はどう?」
柚姫は不快な表情を隠しもしなかったが、唯花の方も追及を諦める気配を微塵もみせなかった。時に、気が置けない仲というのも問題だ。
「春_しゅん_ちゃん〜?」
「そう呼ぶんだ」
「ちっちゃい頃からだからね。春ちゃんは絶対、無い」
「なんでぇ?カッコいいじゃん、ここタン」
「そっちの方が凄いあだ名だよね。あー、カッコいいとか悪いとかそういう問題じゃなくて、私、既に失恋済みだから。ここタンに」
ごくり…と、唯花の唾をのむ音が聞こえた、気がした。
「……詳しく」


柚姫が九重兄弟と初めて出会ったのは、もう十年も前のことだ。
出会いは、九重家が柚姫の隣の家に引っ越してきたという平凡なもので、当時、柚姫と九重家の双子の次男三男が同じ六歳、長男の春輔は十四歳、冬志朗はまだ四歳になったばかりであった。
両家の母親は互いの息子と娘が同じ年と知ると直ぐに仲良くなった。共働きの両親を持つ柚姫は九重家に預けられることが多くなり、九重四兄弟と過ごす時間は自然、長くなった。
柚姫は大抵、同じ年の次男と遊んだり四男の面倒を見てやったりすることが多かったのだが、八つ年上の春輔と顔を合わせることも少なくなかった。
そう、春輔は八つも年上なのだ。そして、現在もそうなのだが、当時も街を歩けば十人中最低でも九人は振り返るだろう日本人離れした彫りの深い美形。
想像して欲しい。六歳の女児にとって、十四歳のイケメンのおにいさんがどう見えるか。高二となった現在の柚姫にしてみれば十四歳など先程遭遇した冬志朗然りお子様にしか見えないが、小学一年生には理想の王子様そのものだった。加えて、春輔は年の離れた弟が三人もいるせいか年少の子に優しく、しかも柚姫は女の子ということで弟たちに対するよりも更に甘やかされ…恋をしてしまうのも当然だった。

そうして、あれは出会ってから三回目のバレンタインデー。小学三年生の柚姫は去年、一昨年とはうってかわって、九重兄弟に渡すチョコレートに差をつけた。弟達に渡したものより大きくて立派なチョコレートを長男に贈ったのだ。
その他の三人の前で堂々と渡したものだから、次男四男あたりに不公平だの俺にも分けろだのとうるさく文句を言われたが、そんな中でも「春ちゃんは特別だから、チョコも特別なの!」と言い切って渡したのだった。
八歳年下の妹分からの熱烈な贈り物を受け取った春輔は、常時浮かべている微笑のまま柚姫に聞いた。
「それって、柚姫が僕を好きだって…僕に恋してるってこと?」
「えっ、うん、そうだよ!」
柚姫は自分の頬が火照ってくるのを感じながらも、しっかりと答えた。
「そっか。でも、僕は柚姫とは付き合えないなぁ」
「……へ?」
小学三年の女児の脳が固まった。柚姫は自分の好意をアピールすることだけを考えていて、渡した相手と付き合うことなど全く考えていなかった。しかし、結果として「付き合えない」と言われたということは、振られたということだ。自分の好意は受けとめてもらえなかったということなのだ。
急激に悲しい気持ちになった柚木の瞳には涙が滲んできた。
「だって、高二と小三だから。僕が二十歳になっても柚姫はまだ中一だし、完璧に犯罪だな」
ショックを受けた柚姫の耳に、春輔の言葉は全く入ってこなくなった。以下の台詞を聞くまでは。
「だから、柚姫が十八になってからだね。僕たちが付き合えるのは」
「……へ?」
ツキアエル。柚姫は瞬きを三回してから確認した。
「それって、わたしが春ちゃんの恋人になれるってこと?」
「うん。柚姫が十八になったらね」
柚姫の涙はするすると目の奥へ引っ込んでいった。そして、世界は七色の輝きに満たされ、風が運んできたバラの花びらが頬を撫で、遠くから教会の鐘の音が聞こえた……ような気がした。

それからしばらくは、有頂天の日々であった。
毎日用も無いのに九重家に顔を出し、春輔が通学に使う駅の前をうろつき、隣家の玄関の音に耳を澄まし…といったストーカーまがいの他、出すあての無い恋文を何十枚も書いたり、映画ドラマアニメ漫画の恋愛がらみのシーンすべてに自分を投影し悶え涙したり、十八の誕生日をカウントダウンする日めくりの作成を試みたり(母親に止められた)…といった数々の愚行に走った。
情緒不安定ながらも幸せな瞬間_とき_であった。
柚姫はすっかり信じ込んでいた。自分が十八歳になった暁には必ず春輔と恋人同士になれるものと…それどころか、二人は当然結婚して夫婦になるとまで疑いもせずに思い込んでいた(そんな話は一度もしていないのに)。
それが、砕け散ったのは告白から三か月も経たない、その年のGWど真ん中の休日だった。

珍しく父親と二人で映画を観に行った柚姫が映画館で出会ったのは、彼女連れの春輔だった。
その二人を見ても、すぐには柚姫は二人が交際中のカップルだとは判断しなかった。幼いながらも事実に感づいてはいたのだろうが、
春輔の言葉を妄信していた柚姫は咄嗟には認めることができなかった。しかし、偶然会った隣家の長男と話す娘との事情を何も知らない
父が、冷やかし半分に春輔の隣の人物のことを「彼女さん?」と尋ね、その問いに対し春輔が堂々と肯定した姿を見て、柚姫もようやく現実を思い知った。
今ならわかる。十七歳の高校生が九歳の小学生の恋心を本気には受け取らないということを。逆に本気にしていたら結構問題有りだということを。
しかし、当時の柚姫は本気過ぎる程に本気だった。ただでさえショックなのに、相手は彼女と恋愛映画を観に来ていて、自分は父親とアニメ映画を観に来ているとういう事実も、二人の世界が全く違うのだと思い知らされ、ますます柚姫を落ち込ませた。

もう八年も前の出来事だ。だというのに当時の失恋が余程衝撃的だったのか、幼い初恋を失って以来、高二にという青春真っ盛りの十六の年まで、柚姫は「いいな」と思える男子はできても本気の恋愛感情を誰かに持てた試しが無い。
春輔は現在、彼の母校であり柚姫と九重の次男三男が通う高校の物理教師をしている。柚姫は週に一、二回、学校や家の近所で彼をみかけるが、春輔にとっては柚姫はただの勤め先の生徒兼隣家の妹分であり、柚姫にとっての春輔は彼への恋心が完全に消滅している現在、通う高校の教員兼隣家のお兄さんでしかない。

「現在に至っても常に彼女を切らしたことがないらしく、シロちゃんからまた違う女連れて来たとかなんとか聞かされるけど、別にどうとも思わないかな。来るもの拒まず去る者追わずなタイプなんだろうなとしか」
「でも、話してくれたのって九歳と十七歳だった頃の話でしょ?十六と二十四じゃまた違うんじゃない?」
「いや、無いわ。春ちゃんに恋するとか、今更。あ、春ちゃんは普通に優しくしてくれてるよ。受験の時は勉強みてくれたし、毎年誕生日プレゼントくれるしね。実際の兄妹とは違うんだろうけど、仲のいい親戚って感じかな」
ハンバーガーとポテトを食べきってしまった柚姫は、ドリンクをだらだらと消費するモードに入った。一方、向かいに座る唯花はポテトをまだ残していた。冷めきると不味くなってしまうだろうと柚姫が見ていると欲しがっているものと勘違いされ勧められた。柚姫は一旦はそういうのではないと断ったが、結局残りを全部もらうことになった。


「じゃあ、九重先生は無しとして、次男は?夏央_なつお_君」
「この話、まだ続けるの」
「続けるよ」
柚姫は脂っぽくなった自分の指先を見た。しまった。先刻もらったポテトの代償がこれか。
「夏央君と柚姫、付き合ってるんじゃないかって一部で噂になってるよ」
「はあ?」
「だって二人、クラスも部活も違うのに、よく一緒にいるし」
「確かに…うん、仲は良いよ」
柚姫は九重四兄弟の中でも、同じ年で馬の合う次男の夏央とは昔から特に親しい仲だ。
「やっぱり」
「『やっぱり』って何が?なっちゃんこそ、そういうんじゃないから。なっちゃんはちっちゃい頃からの友達っていうか…こう言っちゃうと恥ずかしいけど、私は親友だと思ってる」
九重家が引っ越してきた時、六歳の柚姫は隣家には男の子の兄弟しかいないと知り、正直がっかりした。色気づくには早すぎる年齢だったので女の子の遊び相手を欲していたし、当時の柚姫は幼稚園で特定の男子園児にいじめられており、少なからず男の子というものに苦手意識を持っていたからだ。
しかし、柚姫の偏見は夏央という男の子に拭いさられた。夏央は今もそうだが、男性的なガサツさのない子だった。男の子同士の遊びにも参加するが柚姫のおままごとや人形遊びにも嫌々でなく付き合ってくれ、柚姫がそれまで知っていた男の子と違い女の子や女の子の好むものを下に見ようとする所がなかった。
二人は直ぐに性別を超えた友情を結んだ。夏央の女子力は高く、柚姫が彼を知らない人物に対して友達の「なっちゃん」の話をすると、大抵の人は最後まで「なっちゃん」を女の子と勘違いしたままだった。柚姫は中学生になるまで特別に仲の良い女の子の友達を持たなかったのだが、その原因は多分に夏央との親密な関係にあったものと思われる。
「春ちゃんに失恋した時も、お母さんにも慰めてもらったけど九歳の恋なんて大人は本気に受け止めないから、一番真面目に慰めてくれたのなっちゃんだったな。お陰で男性不信に陥ることは免れた」
「そんなに優しくしてもらってたら、好きになっちゃったりしないの?夏央君、モデルみたいでカッコいいし」
夏央も兄弟の他の面々と同様、見た目が大変良い。タイプとしては流行りの塩顔というやつで浮世離れした美形が行き過ぎている長男四男と違い、現代日本での需要が高いためか、一たび都会に出ればしょっちゅうスカウトされてしまう男子である。 しかも、男の子には珍しく幼い時から「おしゃれ」に積極的で、例え他の男子と同じ制服を着ていても垢抜け感が段違いだ。
夏央に出会ったのが高校生になってからであれば、柚姫が夏央を好きになっていた可能性は低くはなかったかもしれない。しかし、だ。
「ならないなぁ、好きに。カッコいいとか男の子意識する前に友達になっちゃったから。逆にそういう恋愛の対象とかにしたら信頼を裏切るようで悪い気がしちゃうかも」
そして…夏央の事情を考えて唯花には言わなかったが、柚姫は夏央が同性愛者なのではないかとぼんやり感じている。そう感じる程、柚姫は彼から男を感じないのだった。


「じゃあ、貴秋_たかあき_君は?同じ顔だけど、夏央君と違って友達って感じでもないでしょ」
「たか…」
愚問だ。そう思った柚姫は、一瞬言葉が続けられなかった。何故なら彼は。
「たかちゃんこそ、絶対中の絶対にありえない。だって、たかちゃん私のこと、大っっっ嫌いだから」
柚姫は兄弟の他の三人には、それぞれ妹分として、友人として、姉代わりとして好かれているという自信はある。
しかし、貴秋には…十年の長きの中で、一度として好かれていると感じた記憶がない。というより、嫌われている記憶しかない。
それは、初対面からだった。初めて九重家と神田家とが家族同士、挨拶を交わした時、長男次男は大変愛想が良かったが、三男の貴秋は終始不機嫌だった。しかし、その時には自分が嫌われているとは柚姫は思わなかった。ただ、少しシャイな子なのだと思っただけで。しかし、それは徐々に楽観的な考えだったと明らかになっていった。
貴秋は今もそうだが、実際に確かにシャイな子ではあった。しかし、常に不機嫌なんてことは無く、挨拶等の礼儀は同じ年頃の子と比べても十分わきまえていた。
それが、柚姫に対しては完全無視である。双子の兄の夏央と大の仲良しの柚姫だったから、当然貴秋も頻繁に…幼い頃はほぼ常時目にしていただろうに、貴秋は柚姫を存在しないものとして扱い、徹底的に無視した。
貴秋の行為はそれまで何者にも嫌われた経験の無かった幼い柚姫を悩ませた。幼稚園では柚姫をいじめる子はいたが、その子は変にちょっかいを出してくるタイプで、柚姫の方も「本当はかまってほしいのかな」と薄々感じていた。しかし、貴秋は違った。彼は柚姫の存在を完全否定した。
これで貴秋が性格の悪い子であったのならまだ良かった。しかし、貴秋は不愛想ではあるが実は大変優しい子であったので、なお柚姫を悩ませた。そう。酷い扱いを受け最悪な仲でありながら、九重四兄弟の中で一番優しい男子は貴秋であると柚姫は断言できる。
彼らの中で、まずわかり易く性格が悪いのは四男の冬志朗だ。周りから甘やかされたせいか生まれつきの性格か、彼は人への気遣いというものが、全くなっていない。今日見せた本屋での彼女への態度も、その性格の一端が露わになったに過ぎない。
しかし、冬志朗は一見して嫌な奴とわかる分まだマシというもので、本当にどうしようもないのは長男の春輔である。彼はパッと見、優しく包容力があるように見えるが、実際は簡単に女性を乗り換えていくことからもわかるように薄情な性格で、しかも本人に自分が薄情だという自覚が皆無だ。
次男の夏央は上記の二人よりもマシだが、人並みに意地悪な部分はある。どんな相手にも笑顔で神対応の彼だが、実際には最も好き嫌いが激しく、柚姫の前では盛大に不快な相手をディスったりするものだから、たまに表向きの顔と違い過ぎてちょっと怖い。
三男の貴秋は夏央と違い、人の悪口を言っているのを見たことが無い。困っている人を見かけたら見て見ぬふりはしないし、トラブルに巻き込まれても最後まで面倒をみようとする(そして見兼ねた夏央に回収される)。どんな嫌な相手でも誠実でいようと努力しているし、自分が損をする状況でも不公平を正そうとする。まだ高二だというのに…いや、もっと幼い頃から彼は文句なしに大した人格者なのだ。
しかし、である。柚姫に対する態度だけは別であった。

貴秋と出会って数年は、柚姫は彼との関係が良くなるよう努力した。自分の何が彼を怒らせているのかはわからないが、きっと何か勘違いしているのだと、好かれるよう頑張ったのだ。しかし、その気持ちもバレンタインデーで渡したチョコを棄てられたことで萎えた。
「ちょっと待って。そのチョコ棄てられたのってさ」
「うん?」
「柚姫が小3の時じゃない?」
「多分、そうだったけど…よくわかったね。そういう努力が続けられるのって、せいぜい三年が限度ってことかな。もちろん義理チョコだったけど、お隣さんへの親愛の気持ちは込めてたわけだから、やっぱ棄てられちゃったのは辛くて、めげた私はそこで関係改善を完全に諦めたね」
柚姫がドリンクのカップを持ち上げると、期待していた重さが無く、もう飲み切ってしまったのだと気が付いた。
「でも、それ小学生の時でしょ。今は大分変ったんじゃない?貴秋君も」
「変わっていないと思う。あ…中三の時、何故か恋愛沙汰に巻き込まれたんだよだよね」
貴秋は兄弟たち同様、これもまた女子にモテる。というより、兄弟の中で一番モテている。
幅広い「人気」という点では貴秋は夏央には遠く及ばない。夏央は明るく社交的で、目立ちたがりやというのではないが、注目を集めることを恐れない。対して、貴秋は陰湿な訳ではないが、基本的に俺にかまうなオーラを発し、目立つことを徹底的に避ける。おまけに夏央と違って服装に興味がなく、いつも垢抜けない恰好をして生来のルックスの良さを生かそうという気もない。
だが、彼は少し知ってしまえばわかるが、底抜けに良い奴である。ツンデレ、そして一見雰囲気的にはそう見えないが、実はイケメン。貴秋に嵌ってしまう女子は少なくない…というより、非常に多いのだ。
そして、それらの女子らは何かと柚姫を目の敵にしてくる。それは、仕方の無い事かもしれない。好きになった男の子が毛嫌いしている相手に良い印象を持ちにくいのは当然だろうから。
しかし、中三の時のあの子は違った。彼女は盛大に思い違いをしていた。
「たかちゃんのことが好きな女子がさ、私とたかちゃんがいる所にきて…なんで二人でいたかっていうと、母親同士の用事で頼まれごとがあっただけなんだけど、あの時も、たかちゃん嫌そうな顔してたなぁ…あ、そんなことはどうでもいいんだけど。それで、その女の子が来て、たかちゃんに言ったの。『貴秋君はホントはその子が好きなんでしょ!』って。どういう流れからかは謎だけど」
「……私はなんか、わからなくもない気が…それで、貴秋君はなんて?」
「『こんなブス、好きなわけねーだろっ!』」
「……」
柚木は飲み切ってしまったのを忘れて再度空の紙カップを持ち上げてしまい、その軽さに口を尖らせた後、また話を続けた。
「他の男子に同じこと言われても『口が悪い奴だなー』って思うだけだけど、優しくて人を傷つけたがらない人に言われるとさー…。まぁ、嫌われてるのは十分わかってたけどね。ということで、中三の時点で嫌われは続行してるし、恐らく高二の現在も態度が変わらないところを見ると、何の変化も起こっていないものと思われます」
言い切ってしまった後、柚姫は唯花のトレイを見た。彼女も食べ切ってしまったようだし、店内も混み始めた。そろそろ店から出るべき頃合いだろうか。
「なんか、自業自得だけど、ちょっと同情するわ」
「えーっ!自業自得って、初対面から嫌われてるのに!?」
「柚姫にじゃなくて、…貴秋君に」
唯花は疑問符を頭上に浮かべる柚姫へのフォローもなしに、「じゃ、行こうか」と席から立ち上がるとトレイを持ち上げた。





何もかもが突然動き出したのは、その一ヶ月後であった。
柚姫が放課後、帰宅しようと校内の廊下を歩いているとばったり物理教師(兼隣人)に遭遇してしまい、書類整理の手伝いをさせられる羽目になってしまった。
整理…といっても、教師が物理準備室の床に落下させ、ばらまいてしてしまった書類を元の日付順にして戻すだけだったのだが、量が凄かった。段ボール二箱分である。
「よくやったね…」
その惨状を見て、柚姫は本来使うべき敬語を見失った。
「一瞬の出来事だった」
「春ちゃ…九重先生、結構なドジですもんね」
柚姫は早速屈むと紙を拾い始めた。続き番号のままの状態のが大体だったが、滑り易いリノリウムの床のせいで、きれいにばらけてしまったのもそれなりの枚数ありそうだった。
「柚姫、もうすぐ誕生日だな」
「おかげさまで」
自分と同じように書類を拾っているだろう春輔を見ることなく、柚姫は返事した。
「十七歳か。何か欲しい物、ある?」
「んー、特に無いかなぁ。新しいスマホ、お父さんが買ってくれるし。何これ…日付が五年前って……。スマホケース買ってもらおうかな」
「ケースって、そんなしないけど…まぁいいや、今年はそれで。どうせ来年の誕生日は盛大にするし」
「盛大?二十歳ならとにかく、十八の誕生日は特別に祝うこともないよ」
「特別に祝うよ。晴れて恋人同士になるんだから」
腕に抱えていた書類の束が、柚姫の腕から抜け落ちていった。せっかく順番に並べながら集めていたのに、これでははじめからやり直しだ……いや、そんなことではなく。
「恋人同士って…誰が?」
「僕と柚姫。柚姫が十八になっても、教師と生徒じゃ大っぴらには付き合えないけどね。だから、ちゃんとしたデートとかってなると卒業してから…」
「しゅ…じゃなかった、九重先生!えーっと、なんの話ですかっ?」
「え、だから、僕と柚姫が十年の時を経てようやく来年、恋人同士になれるねって話だよ」
春輔は薄情な男だ。こんな性質の人間が高校教師という職についていいのかと不安になるくらいに。だが、彼は薄情ながらも冗談や嘘や誤魔化しを言わない人間だ。とすると、柚姫は生まれて初めて春輔が冗談を言っている現場に遭遇したのだろうか。
柚姫は床ばかりに向けていた顔を上げ、春輔を見返した。その瞳の色は…うん。彼はマジな様です。
「小三の時の話だよ?」
「僕は高二だった」
「彼女、いた…いるよね、今も」
「どのコも繋ぎだよ。柚姫と付き合う直前まで他のコと付き合うのも悪いと思って、先月に最後の彼女とも別れたし」
恋愛のことで悪いとか、そういう感覚ってこの人にあったんだー…と、柚姫は的外れに感心してしまったが、感心している場合ではなかった。
「ごめん!私、今全然、春ちゃんのこと好きじゃない。あっ、好きじゃないって恋愛対象外って意味でね。お隣のお兄さんとしてはちゃんと好きだよ」
「…フォロー入れたつもりだろうけど、かなりはっきり断ったね」
「すいません。でも、ちゃんとハッキリしとかなきゃと思って」
書類のちらばる床の上に屈んだ春輔は数秒間、固まって動かなかったが、やがて大きく息を吐いた。
「十年間、ずっと思い続けてきたのに」
「ごめ…って、彼女作ってたよね?何人も!嘘…ではなさそうだけど、やっぱり彼女作ってたよね?!」
「だから繋ぎだって……まぁ、いいや」
春輔はぼんやりと遠い目をした。その様子を見た柚姫は自分が大変な不義理をしてしまった気がしてきて、 唐突に罪悪感に襲われた。しかし、ここで「約束通り付き合います」という気にはならなかった。残念な失恋(どうやらしていなかったらしいのだが)の記憶が残っているし、春輔の女性たちの扱いを知っているだけに彼と恋人同士になろうという気が全く起こらなかった。
柚姫は春輔から目を逸らし、書類拾いを再開させた。
「好きじゃないっていうなら、好きにさせればいいだけか」
柚姫の耳は、聞こえるか聞こえないかの春輔の小さな呟きを拾ってしまった。そして、つい見返してしまったその顔は…。
誘惑に徹した彫りの深い美形の笑顔というのは、結構な迫力であった。



だが、その物理準備室での出来事が序章に過ぎなかったことを、この時の柚姫はまだ知らなかった。
この後、春輔とのことを相談した夏央から「あんな変態やめて、気が合ってなんでも話せる俺にしとけ」と返り討ちに遭い、愚痴をこぼした冬志朗からも「やっぱり兄ちゃんたちにも渡したくない。好きな人と好みのタイプは必ずしも一致するわけじゃないってわかった」と迫られ、仕舞いには誰から聞いたのか全ての事情を知った貴秋に「本当は初めて会った時から、ずっと好きだった」と告白され…。
十年間隠されていた(というか、単に柚姫が気付いていなかった)超局地的なモテ期が十年目にして一気に表面化していくことなど、この時の柚姫はまだ知る由もなかったのである。

プリ小説オーディオドラマ