あなたは男の話を聞く覚悟をすることができて席に座ると、男はあなたの行動に対し悦びを隠せず前のめりになっていた。
「ありがとう!僕は嬉しいよ…!!さぁ、何から話そうか!」
最初の気怠い印象とは違い明るい男にあなたは少し戸惑っている。動揺を隠せないあなたを差し置いて男は話を続けた。
「そうだね…よし、これから話そうか。」
やっとのことで落ち着きを取り戻した男は椅子にゆったりと座る。ふぅ…と一息つくと男は話し始めたのだった。
「僕はね…少し変わった過去を過ごしてきたんだ。君には想像もできない過去さ。
この30年間の中で色々あったね…
幼い頃…僕は大金持ちの元に生まれたんだ。
親は金遣いが荒くてね…特に父親が酷かった……フェラーリだのランボルギーニだの外国の車ばかり買ってさ〜…風呂の壁には大理石もあるし、人間国宝が作った冷蔵庫もあるんだ。家にはサウナもあるし、なんなら台所にはワイングラスが上に沢山吊るされていふんだよ。父親は本当に無駄遣いばかりしていたね。」
あなたはその話を不思議そうに聞くしかなかった。あまりにも異世界すぎて信じられないその話に対し『自分は何を聞かされているのだ?』と疑問に思うしかなかった。
それでも男は続けた。
「……俺の父親はマンションのオーナーさ。マンションの1番上の階に住んでいる大金持ちさ。多くの人から見たら凄いと思われるだろう。お金に何も困らなくて、家に何でもある。まさに幸せじゃないのかと。俺は小さい頃からそう言われたよ。」
あなたは一人称が「僕」から「俺」に変わっている事を見つけた途端、ふと『山月記』を思い出した。
『山月記』とは中島敦が書いた物語である。
主人公の李徴(りちょう)が虎になる前に親友の袁傪(えんさん)と最後の対話をする話であり、李徴は虎に変わろうとする時…つまり理性が本能に戻る時に一人称が「俺」になるという技法を中島敦は使っていた。
あなたはまさにそれだ!という胸の高鳴りを隠しながら続く男の話に耳を傾ける。
「俺は…『家に執事でもいるのか?』と小学校の同級生の友人達に言われた事がある。俺は『お金持ちのおぼっちゃま扱い』をみんなから受けていた。俺はみんなと同じでいたかった、俺は普通に接していたのに何故そう言われたと思う?俺の父親はさっき金遣いが荒いと言っただろう?母親もそれを止めなかった。寧ろ自分の家が裕福だと感じた途端…
俺が持つ給食袋、遠足の時に着る普段着、筆記用具…俺の持ち物の全てを自分が他の親御さんたちに自慢する為の道具として使ったんだ。小学生の餓鬼でもナメちゃあかんよ?自分が親の道具として扱われている事をうっすらと察しているんだ。でも、親に嫌われたくないから何も言わず何も思わないようにして育っていくんだ。
あのな、子供って観察力が凄いんだ…
例えば幼い子供でも親の機嫌を読み取る事が出来る。極端な例を上げると大人達が何か催しを行った時に『楽しんであげなきゃ』という考えが子供の中で芽生えているんだ。少なくとも…俺が小学校の頃はそうだった。みんな大人達が見えない影でヒソヒソと喋っていたのを今でも覚えてる。」
淡々と話す男の過去が垣間見えてきたあなたはまだ疑問に思っていた。『この人は何を伝えたいのだろう』という疑問だ。
男はまたふぅ…と一息つく。
「そんな両親だからきっと子供の事を考えず、己の承認欲求に浸り、金を使いまくり幸せに満ちている……とは俺は思わない。
そういう人が一番『不幸』なんだよ。」
『不幸』…?
あなたは口を開こうとするも男は続ける。
「俺が好きな教授の本にこのような内容の言葉があった。『幸せの水を心のコップ一杯に入れる。コップから溢れそうになった幸せはいつしか自己実現(じこじつげん)に変わる。自己実現をすると自然と相手を思いやり優しくなる』という言葉が。」
まるで遠い昔を思い出すような、何かを懐かしむような様子で目を瞑りながら…男はあなたに大好きな教授の考え方を伝えた。
「……お前さん、まだ俺の話を聞くかい?」
男は視線の先をあなたに向ける。
「それともこれで帰るかい?」
問われたあなたは驚いていた。この席から立ち上がろうか立つまいか迷ったていた。
タメになる話だが前置きが長すぎる。一体その自分語りを聞いた先に何が待っているのだろうか…あなたは少し考えた。
男は考えているあなたに向けて告げた。
「僕の好きな教授の言葉に『学問を終えた者は他者の精神的援助を行いなさい』という言葉がある。君は…僕から学ぶことはあるだろうか…あると嬉しいんだけどな。」
本能から理性に戻った男はどこか寂しそうな目をしていた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。