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第1話

二人のナツミ
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2019/02/13 12:51
 ─ ナツミ ─


 彼がその名前を口にするたびに、胸の奥がキュッてなる。まるで洗いたてのお皿を、柔らかな布で拭いたときみたいに。キュッて。
 私の名前だけど、私じゃないその名前を……。


 6月1日。衣替えを迎えた2年3組の教室が、なんだかいつもより明るく感じられるのは、半袖シャツの白い輝きと、もうじき訪れる夏へのワクワクした気持ちのせいだろうか。


「ナツミ! いるかぁ?」


 その名を呼ばれて、思わず振り向く。声の主は分かっていた。横倉くん。春の大会が終わり、三年生が部活動を引退して、バスケ部の新しいキャプテンに選ばれた、同じクラスの横倉颯人《よこくらはやと》くんだ。


「うるさい颯人。そんなデカい声で呼ばなくたって聞こえてるよ」


 横倉くんに呼ばれた『ナツミ』が答える。彼女の名前は『紺野夏海《こんのなつみ》』。こちらは女子バスケ部の新キャプテンで、横倉くんとは同じ中学校出身の上、小学校の時には、ミニバスのチームメイトだったそうだ。


「おまえ、南中との練習試合の話って、先生から聞いてる?」
「あ、やば。颯人にプリント渡すの忘れてた」
「はぁ!? マジかよ」
「ごめんごめん。アレ? どこやったんだっけな」
「頼むよナツミー」


 文庫本に視線を落としているけれど、内容はまったく頭に入ってきていなかった。『颯人』、『ナツミ』と、二人が名前で呼び合うのを、私は体全部を耳にして聞いている。
 お父さん以外に、私は男の人から名前を呼びすてで呼ばれたことなんてなかった。二年生になって、この二人と同じクラスになるまでは。


 私の名前は、花澤菜摘《はなざわなつみ》。
 横倉くんが声にしているのは、私じゃない『ナツミ』。それなのに、こんなにも胸が騒ぐのは、
──私が横倉くんに、恋、しているからだ。


 背中に、羽が生えているのかと思った。はじめて横倉くんを、体育館の屋上コートで見た時に。


 高校に入って、私は文芸部に入部した。部員がもともと少ない上、ほとんどの生徒が『自宅活動』と称してさっさと帰宅してしまうため、活動に使っている学習室ではひとりで過ごすことが多かった。
 三階の本校舎のはしっこにある学習室は、風通しが良く静かで居心地のいい場所で、教室の窓からは離れて建つ第二体育館の屋上コートが良く見えた。そこでは、バレー部とバスケ部の生徒が時間ごとに交代で練習をしていて、晴れた日にはにぎやかな声がいつもあがっていた。


 そこに、横倉くんはいた。


 決して大きくはない身長なのに、誰よりも高く跳んでいた。見えない何かをつかもうとするかのように。空に向かって手を伸ばして。


 イカロスだ。
 いつか本で見た、太陽に向かって飛んだ青年・イカロスの勇ましい姿。
 私の目には、横倉くんがそう映った。


 その日以来、私は横倉くんの姿を屋上コートに探すようになった。
 苦手じゃなかった雨の日がキライになった。だって雨が降ると、横倉くんの姿を見れなくなってしまうから。でも……


「ナツミ! バツとして、今度ポカリ一本おごれよ」


 二年生になってキセキが起きた。横倉くんとクラスメイトになれたのだ。


(いつも練習見てたよ)
(シュートする時のジャンプ、すごいね)


 話しかけたかった言葉はたくさんあったはずなのに、緊張してほとんど言葉を交わしたことのないまま、六月が来てしまった。でもこうやって毎日横倉くんに会えて、そして横倉くんが『ナツミ』という『音』を奏でてくれるだけでも嬉しかった。たとえそれが、私を呼ぶ名前じゃなくっても。


「はぁ? ヤダよ!颯人の一本って、ポカリ2リットルでしょ? 」
「あったりまえだろ?」
「飲み過ぎ! チビのくせに燃費わるいよね」
「なっ、チビって言うな!!」


 二人の声を聞きながら、頭の中で想像する。『ナツミ』って呼ばれているのが私だったら。『颯人』って呼んでいるのが私だったら。


「あぁっ、ゴメン!ハナ!!」


 本物の『ナツミ』である彼女が、私に声をかけた。


「ううん大丈夫だよ、ナッちゃん」


 彼女=紺野夏海を、私は「ナッちゃん」、ナッちゃんは私を「花澤」の「花」をとって「ハナ」と呼んでいる。


「てめーナツミ、花澤さんに迷惑かけてんじゃねーよ」
「うっさい颯人」


 ナッちゃんが私の机にぶつかり、筆箱が床に落ちたのだ。それを


「はい」


 横倉くんが拾ってくれた。私のブタちゃんの筆箱を。あー、なんでもっと大人っぽい筆箱にしていなかったんだろう。よりによってあかんべぇしている子豚の形の筆箱だなんて。


「あ、ありがとう」


 差しだされた筆箱を受け取る。


 手のひら、大きいな。バスケのボールつかむんだもんね。
 髪の毛、細くて柔らかそう。シャンプー、何つかっているんだろう。
 目の色、不思議。茶色と緑が混じり合って光っている。高級なチョコレートみたい。
 あ、シャツの中、Tシャツ着てる。校則違反だ。でもそのブルーのTシャツ、お気に入りだよね。練習の時、よく着ているやつだもん。


 ── キーンコーンカーン ──


 ホームルームのはじまりを告げる鐘が鳴らなかったら、そのままずっと横倉くんを見つめ続けるところだった。


『ナツミ』が私じゃなくてもいい。
『花澤さん』でも全然いい。


 とりあえず、子ブタちゃんの筆箱は一生宝物にする。


 ブタちゃんを抱きしめながら、そう思った。

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