夏休みが始まり、校舎内は賑やかさを失って閑散としていた。
廊下に自分の足音だけが響いて、落ち着かない。
表記札のない空き教室の扉の前で私は立ち止まる。
一体、私にどんな用事があるんだろう。
ECOの関係者でもない私に……
私は上嶋くんに、食人鬼であると告白した。
だから上嶋くんが所属してる食人鬼対策室に狙われる危険が増したし、この扉の向こうで捕らえられてもおかしくない。
上嶋くんとは浜辺の告白以来二週間以上会っていなかった。
でも。
きっとまた上嶋くんに会える。
前みたいにはいかないかもしれないけど——
息を飲んで扉に手をかけようとすると、がらりと扉が開いた。
思わぬ所で美空が飛び出てきて、私は面食らってしまった。
ほんのりと赤くなった頬を掻いて美空は照れ隠しをした。
美空は急いで廊下を走り抜けていった。
開かれたままのドアに視線を戻すと、教室の中には三好先輩がいた。
机の上に座っている三好先輩はため息を吐く。
私はドアを後ろ手で閉めて教室の中に入った。
三好先輩は右腕に巻かれた包帯を私に見せる。
呆れながら言うものの、三好先輩に嫌がる素振りはない。私はそれに少し安心した。
冷たい言葉の割にはトゲがなく、先輩が照れているのだとすぐに分かった。
微笑ましい気持ちになったのもつかの間、窓の方から明るい声がした。
汗一つかいていない顔で陽翔くんは白い歯を見せてさわやかに笑う。
彼は軽々と教室に降り立った。
開いた窓から蝉の声も入ってきて、夏を感じさせた。
未だに私は、陽翔くんって本当に人間なのかなあと思ってしまうくらいだ。
陽翔くんは一瞬だけ逡巡すると、真面目な顔で私に視線を向けた。
鳴いていた蝉の声がじりっと途切れる。
真夏の静寂に目眩がしそうだった。
真っ先に三好先輩は疑問をぶつける。疑り深そうに眉を寄せた。
三好先輩は包帯で巻かれた右腕を緊張した吐息を吐いて触った。
上嶋くんに自分の正体を打ち明けたのは、私自身という脅威から彼を一時的に遠ざけるためでもあったけど。
ガラッ
その時、突然に教室の扉が開かれた。
生徒会長の能美川明梨が柔らかに微笑みながらドアを開け放った。
その微笑みとは裏腹に口調は厳しい。
陽翔くんが名前を呼びかけたとき、能美川さんの目が鋭くなった気がした。
能美川さんが体を翻すと、透き通るような長い髪が舞った。
彼女が戻っていく廊下の先に。
仮面を貼り付けたように無表情な上嶋くんがそこにいた。
私と焦点の合わない瞳はどこまでも暗くて虚ろで——
だけど、拳は爪が食い込むほど強く握られていた。
その拳を細くて白い彼女の指が包み込んで、連れ去って行く。
ただでさえ断絶の谷に阻まれている私と上嶋くんの距離が、もっと開いていくような気がする。
私からはもう手を伸ばせない。
伸ばしても届かない。
運命の鎖でつながっているはずの、あの温かい手のひらはどんどん遠くなっていって——
ぽこっと、後頭部を軽く小突かれて私は我に帰る。
向きをくるりと反転させられる。三好先輩は私の額を指で弾いた。
私は額を擦りながら三好先輩を睨む。
流石にいじわるし過ぎじゃない?
先輩はにぃっと満足げに笑って私の頭を撫でた。
上嶋くんとは違って乱暴な手付きだけど、優しさに満ちた手のひらだった。
三好先輩は最後にぽんぽんと私の頭を軽く叩く。
ずっと、一人で苦しまなくちゃいけないと思っていた。
一人で何でもしないといけないと思ってた。
手を伸ばしてくれる人が、本当は傍にいたんだ。
それだけで、胸を締め付けていたものが少し緩んだような気がした。
三好先輩は私の数歩前に出て、陽翔くんと向き合った。
不思議そうに陽翔くんは首を傾げる。
じり、じり、と夏の虫たちが短く、ばらばらに鳴き始めるのが聞こえた。
手紙、というのはあの逆さのハートが刻印された封筒のことだろうか。
三好先輩は真っ直ぐと陽翔くんを見据えた。
陽翔くんは表情を変えなかった。何の意図も見えず、眉一つ動かさない。
ただじっと、大人しく三好先輩の話に耳を傾けていた。
一斉に蝉たちが鳴きだして、静寂はかき乱される。
そのざわめきの中心で、窓に寄りかかった陽翔くんは私達から視線を外すことはなかった。
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編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。