私と上嶋くんの前に立ち塞がったのは、逆さのハートの仮面を付けた黒コートだった。
私が上嶋くんの前に出ようとすると、彼の腕が遮った。
そう言い残して、黒コートの人物は夕闇に溶けるように消えた。初めから何もいなかったように、存在ごと見失う。
ぞくりと、蒸し暑い山中で悪寒が走る。
バレたら殺される。
あの死体みたいにーー
上嶋くんはポケットから黒い手帳を取り出した。
その手帳にはさっき目にしたばかりのーー
逆さハートの紋章が記されていた。
◆◆◆◆
探偵事務所に着いてすぐに、上嶋くんは佐那城先生に怒られてしまった。
崩れた本と倒れた本棚に潰されている先生に。
佐那城先生はいつものふにゃっとした声でぱたぱたと手足を動かした。
私たちの手錠は事務所で無事に外せた。
半ば呆れた上嶋くんが佐那城先生を引っ張り出すのを私も手伝う。先生からさっきまでの威厳はすっかりなくなっていた。
いつの間にか黒いソファに座って足を組んでいる上嶋くんが言った。
佐那城先生は苦笑いをしながらも、私に逆さハートの組織について説明してくれた。
さっき説明を受けた時は流石に驚いた。
三好先輩が連れ去られた後、逆さのハートに見覚えがあると上嶋くんが話していたのを覚えている。
彼がECOに入ったのはその後だろうか。
佐那城先生に釘を刺されて上嶋くんはむっと唇を尖らせる。拗ねてるなあ。
どきどきと、緊張感で鼓動が早くなる。
もし、食人鬼だってこの人達にバレたら。
ごくりと唾を飲んで、私は上嶋くんに問う。
明るい声とともに扉が開き、陽翔くんが大量のコーヒーを抱えて入ってきた。
陽翔くんは顔をぎこちなく歪める。
陽翔くんもあの逆さのハートが刻印された手帳を持っていた。
つまり、彼もECOの一員だったのだ。
上嶋くんが戸惑う陽翔くんに事情を説明した。
ECOの事情に私を巻き込みたくなかったが、私も食人鬼に遭遇している以上隠しておけないと。
陽翔くんの様子はあまり芳しいものでなく、彼の瞳に陰りが見えた気がした。
さっきからずっと居心地が悪くて胸の奥に不安がぐるぐると渦巻く。
上嶋くんが私の肩に触れて、私を見つめる。
誠実な決意の宿る瞳。
その真っ直ぐ視線が、
隠している胸の内を貫くようで、苦しかった。
嬉しいはずの言葉が心苦しくもあって――
その時、陽翔くんが怪訝そうに呟いた。
いつもの朗らかな陽翔くんとは違う、厳しい口調だった。顔つきも険しくてまるで何か癇に障ったような。
きっ、と眉間に皺を寄せた上嶋くんが陽翔くんに詰め寄った。
上嶋くんが胸ぐらを掴もうとした手を、陽翔くんはいとも簡単に止める。
陽翔くん耐えるように唇を噛む。
そう言って眉間に皺を寄せる彼の顔はどこか辛そうな気がした。
ド
ク
ン
二人の仲裁をしようと、制止の声を上げた瞬間。
体を突き破るような本能に襲われた。
ブ ワ
リ
一気に衝動が広がって、血液が沸き立つ。
私は咄嗟に口元を押さえて、事務所を飛び出した。
彼の叫ぶ声が聞こえた。
急いで階段を駆け下りる。
その間にもドクドクと音を立てて衝動が襲ってくる。
口の中が唾液で溢れて、全身の肌が逆立つ。
彼の体温、白くてなめらかな肌、甘い匂いが何度も思い返される。
早送りの紙芝居みたいに目まぐるしく彼の姿が脳内で再生された。
喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい
喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい
事務所の外に出て、暗い路地裏に走り込む。
本能に従いたくなって、意識が朦朧とする。
喰べたい喰べたいダメダメダメダメ喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい食べたいダメ食べたいダメダメダメダメダメ食べたい食べたいダメダメダメ食べたいダメダメダメーー
上嶋くんの顔がぐるぐると頭の中を巡る。
どうしてここにいないの?
誰もいない暗い夜道、私はひとりぼっち。
喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べた喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べ喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたいたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい喰べたい
路地裏の影から、
月光の下、誰か歩いてる。
きっときっと、上嶋くん違いない。
喰べたい。
そう思ったら、体が軽くなって
ブォンっと風を切って、彼に手を伸ばしたーー
伸ばした手を、誰かに掴まれる。
黒い影。
そのままぐるんと、世界が反転する。
後頭部をそのままコンクリートに強打して、黒い影に抑え込まれる。
ぱちんと、脳がはじけるような感じがして頭に冷静さを取り戻す。
私は、対食人鬼組織の黒コートに取り押さえられていたーー
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!