ずっとずっと、長い夢を見ていた気がする。
眠気が少しずつほどけていって、視界がぼんやり明るくなった。
「あ、おはようございます主様」
開けた視界に映ったのは、黒インクのような、真っ黒な髪を湛えたメイドだった。
状況が飲み込めず勢いよく起き上がる。
体がみしりと音をたてたような気がした。
「寝起きにいきなり大きな動きは体に宜しくないですよ。」
見知らぬメイドはこちらを見るわけでもなく、手早く着替えを用意している。
「・・・あんた、誰だ?」
思わず漏れでた言葉を敏感に聞き取って、待ってましたとばかりにメイドは笑みをたたえた。
「紹介が遅れてしまい失礼致しました。はじめまして、本日よりパートリッジ家当主レイ様の専属メイドとして仕えさせていただきます、オリヴィア=ブラットリーと申します。」
オリヴィアと名乗ったそのメイドは、恭しくお辞儀をした。
「専属メイド・・・?」
「はい、何から何まで、何でもお申し付けくださいませ。」
全く理解が追い付かなかったが、ひとつだけ聞きたいことがあった。
「おい、オリヴィア」
「はい、主様」
「この状況を説明しろ。」
メイドの紅い瞳が僅かに瞬いた。
長く真っ黒な睫毛がなびいた。
「・・・と言いますと?」
「改めて言うが、僕はパートリッジ家当主、レイ=パートリッジだ。」
「ええ、偉大なる当主様です。」
「僕が当主だということは当然把握している。それどころか、
両親が流行り病で亡くなったこと、
一通りの礼儀作法、この辺りで力を強めている家系のことなど、何だって分かる。」
メイドは満足げに目を細めた。
「流石は当主。素晴らしい教養の持ち主ですね。」
「だが、大事なのはそこからだ。」
1度一呼吸おいた。こんなこと、口にするとは思ってもいなかった。
「唯ひとつ、僕の記憶にないものがある。」
「・・・僕は両親を失ってからどうやって生きてきた?」
何も思い出せなかった。
生きていくうえで必要最低限の記憶は保持しているものの、誰と生きてきたのか、マナーを教えてくれたのは誰なのか。
早い話が、自分以外の人物の存在を思い出せなかったのだ。
勿論、ここにいるメイドのことも。
「・・・お前、何か知ってるだろ。」
ありったけの怒気をこめて呟いてみたものの、メイドは特に表情を変えることもなく口を開いた。
「やはり当主様の勘は鋭いですねぇ」
「逆にこの状況でお前以外の誰を疑えと言うのだ。」
誰かにこんなに上から目線で会話することなど無かったような気がした。
そもそも何も覚えていないのだが。
「確かに、貴方の失われた10年間の記憶については、私が深く関わっております。」
「・・・!だったら!」
「ですが。」
僕の声を遮るようにしてメイドが口を挟み、ぎろりとこちらを睨み付けてきた。
・・・時が止まったように感じた。先程まで聞こえていた時計の音も聞こえなかった。
一応このメイドの主という立場である僕が言うのもなんだが、このメイドに勝てる気がしなかった。
「貴方の空白の10年間について、お話ししても宜しいのですね?」
「・・・構わない。」
喉に声が張り付いていた。
知るのが怖い気がした。
「・・・・主様は」____
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!