人猫――じんびょう
人狼のように、普段は人の姿をしているものの、ある特定の条件下で人と猫の特徴が混ざった生き物、半猫に変わる者。
農村の古い伝承を調べている大学生の青年はある山奥の村へとやって来ていた。
『新月村』
峠を超えた所にある木でできたボロボロの看板の文字をなぞる。
「よし」と小さく声に出して、重たいリュックサックを背負い直し、今は名もなきその村へ青年は確かな足取りで向かっていった。
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その村は穏やかで、稲の植わった田んぼには綺麗な水が入り、太陽の光を反射していた。
青年はここに来るきっかけとなった本に挟まっていた手書きの地図を見ながら歩く。
驚いたことに、この地図が書かれたころからこの村は変化がないらしい。
田畑も家屋も地図に書かれたものと寸分違わず青年の目の前に広がっていた。
村長のものと思われる一際大きな建物を目指す。
その道すがら、たくさんの木に囲まれた社を見つけた。
青年は足を止めて古ぼけた大きな鳥居を見上げる。
まだ日は高い。少しくらい寄り道しても構わないだろうと青年は境内に足を踏み入れた。
境内はひんやりとしていて、居心地がいい。
古くボロボロになっていると思ったが、誰かが手入れをしているのだろう。
余計な雑草もなく、社が壊れている様子もない。
賽銭箱に近づくと、あちこちに猫がいることに気がついた。
三毛猫、黒猫、白猫、キジトラ……中には綺麗な青目の長毛種もいた。
青年は猫好きだった。石段に寝そべる白猫にそっと近づいて、警戒されないように遠くから手を差し出す。
スンスンと何度か白猫が青年の手の匂いを嗅ぐと、ペロリと舐めてから顔を擦りつけてきた。
耳の付け根や顎の下を青年が撫でると、猫はゴロゴロと喉を鳴らす。
「猫に好かれるのね。あなた」
突然の声に驚き、青年が振り返ると、少し幼い見た目の女が立っていた。
灰色に近い黒髪を低い位置で2つに縛っている。相対的に服は真っ白なワンピース。無地だが、彼女の美しさには余計なものはいらない気がする。その色の少なさが薄緑色の瞳の美しさを際立てていた。
「見ない顔ね。外からのお客さん?」
こてん、と首を傾げる動作がたまらなく可愛い。
「うん。まあ、そんなとこかな」
見惚れていたことを隠すように、青年は慌てて立ち上がった。
「大学の研究で、古い農村を調べてて。村長さんの所へお話を聞きに行こうと思ってたんだけど、途中でここを見つけて」
「そうなの?私はお姉ちゃんと神社のお手入れに来たの。私たち村長さんとお隣だから一緒に行こう!」
こんな可愛い子に案内してもらえるなんて今日はツイてる。
また惚けている青年の肩越しに誰か来たらしく、目の前の女の子はぶんぶんと手を振った。
「お姉ちゃん!お手入れ終わった?」
お姉さんが来たようだ。どんな人だろうかとワクワクして振り返った青年は顔を強ばらせた。
妹ににた灰色に近い黒髪は、手入れなどろくにせずに軽くとかしただけに見える。
服装は黒いTシャツにジーンズ。薄手の長袖の上着を羽織っている。
瞳も真っ黒だった。
その黒を纏った女性は青年のことをじろりと睨むと、妹に青年のことを聞き始めた。
目的と村長の所へ行きたいとの旨を一通り説明し終えると、2つ縛りの女の子は青年の手を引き走り出す。
「私、ねお!よろしくね!」
これは自分も名乗る流れだろうかと青年が口を開きかけた時、お姉さんが横槍を挟んだ。
「おい。あんまりはしゃぐんじゃない」
女性にしては低めの声で怒鳴られて、自分が怒られたわけじゃないのに青年は萎縮してしまった。
「わかってるよー。ちゃんと案内したらすぐ帰るから、ね」
能天気に返すねおに引きずられながら、青年はお姉さんが長袖を少しまくろうとしている姿が目に入った。
夏に入りかけた所だ。流石に暑いのだろう。
少しまくった所で、青年が見ていることに気づき、すぐに下ろし、睨みつけてから踵を返してどこかへと行ってしまった。
一瞬だったが、青年は見逃さなかった。
お姉さんの腕に無数の細かい引っかき傷があるのを。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!