第3話

熱中症と鈍感 二
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2021/04/29 06:31









「宇髄、ほら頑張って。着いたから。立って」
「んぅ〜……」
我妻先生の愛車で、自分の家が遠ざかっていくのをぼんやり眺めていると、いつの間にか先生の自宅に到着していた。
俺は眠っていたらしい。体調不良も相まって体が重い。
先生が俺の着替えが入ったボストンバッグを肩にかけている。その男性としては華奢な肩を借りて、玄関のドアに向かった。車の冷房で冷えた肩が心地よかった。
先生の家は、何十年も経っていそうな、『風情のある』という言葉にぴったりな家だった。なんだか意外。おじいちゃんと呼ばれそうな人が住んでいそうだった。
「……お、お邪魔します」
「ただいま、いらっしゃい」
家に入る時の挨拶と、迎え入れる時の挨拶をそれぞれ交わした。手際よく、鍵をかけたり荷物を置いたりする動作をじっと見ていたら、居間に行っていてくれと言われた。中は既に冷房が効いているそう。
申し訳程度の荷物を持って居間に向かうと、冷気と先生の匂いが一気にやってきた。
(他人の家の匂いっていうか、我妻先生の匂いがすごい)
好きな人の匂いを体全体で感じて、幸せでたっぷりになったけど、頭痛がそれを追い出してしまった。
「あだまいだい……」
「え、大丈夫?病院行った方がよかったかな…」
ふと零した言葉をたまたま耳にしていた彼が聞いてきた。すると手から荷物を解かれ、すぐそこの革のソファーに横になるように促された。
「ごめんね、お客さん用の布団なくって…」
そんなこと別にいいのに、悲しい顔しないでくれよ。
ずきずきと痛む頭を押さえながら、先生の悲しそうな顔を見ていた。先生は、クーラーの風が直接俺に当たらないように調整してくれたり、俺に枕代わりのクッションや薄いブランケットをくれたりしてくれた。

(やっぱり、先生はやさしい)

先生はすごくやさしい。
『ウザ絡みの多い生徒』のことも世話をするのだから。
たまたまラインが変だっただけで、仕事を中断してまで家に向かった。家のクーラーが壊れていたから自分の家に入れてくれた。そして、熱中症になってしまった俺の世話まですると言う。
普通、ただの生徒にこんなことしてやれるものだろうか。
彼の中の常識は、世間でのお節介なのだろうか。

それとも、彼は俺に世話を焼いてやろうと思うくらい、俺を特別扱いしているのだろうか。

───そんなこと知らない…。
確かに俺は、何人の人とも付き合った。何人とも、性行為をした。ただの高校生が、一日で彼女が変わるなんてことがよくあった。そんな俺だ、自分でも最低だということは分かった。いつか女に刺されて死ぬんだろうなと思った。
それで、恋を知らなかった俺が初めて好きになったのが、このひとなんだ。
人に連絡先を聞いたのはこれが初めてだし、今まで無駄に鍛えた(?)ときめかせ術をフル稼働して、精一杯の間接キスを仕掛けたこともあった。
(あの時は本当に、先生が可愛すぎた)
だからあれはほとんど勢いだったし、実際にキスが出来そうなくらい、近くてドキドキして、『理性を失う』という体験を初めて味わった。
まるい琥珀の瞳にうつる自分が、彼を縛りつけようとしている獣に見えた。酷く扇情的なそれは、あの味を忘れられないものにした。
あのアイスは、ただのソーダ味なんかではなかった。

(……だから、だから先生の想いがめちゃくちゃ気になるってことを言いたい…)

謎の言い訳を心の中で繰り広げている間に、先生は姿を消していた。それに驚くと、気づいたように先生が駆け足で戻ってきた。
「はい、これ飲んでね」
部活動などでよく見るスポーツドリンクを差し出された。それも、塩分入り。
起き上がってそれを受け取る。ソファーが軋む音がした。すると彼が、ソファー硬いかな、ごめんねぇ、といつもより優しげな声色で謝った。
(誰にでもこんな対応すんのかな)
かわいい女の子に弱い想い人は、女生徒たちに話しかけられただけで表情を緩ます。今の俺の状況も、女相手だとにこやかに接するだろう。この対応が一番の世話かどうかも知らないから。

ずきずきと痛むのは頭だけでなく、胸もだった。

すこし涙と似た味のするドリンクを飲んで、彼が横の棚の中から体温計を取り出したのを横目に見る。測っといて、と伝えた彼はそそくさと台所に行ってしまった。
言われた通りに、体温計を脇に挟んでじっとしていると、先生が冷えピタを持って戻ってきた。あっちこっちに忙しくなっている、大変そうな想い人を見るのはあまり嬉しいことではない。
「あ〜……」
「どうしたの?」
少し声を漏らしただけで、心配をしてくれる。その優しさか健気さか同情か、何かに甘えたくなって、このソファー硬いね、なんて言ってみたりした。
「やっぱり……ごめん、他に寝れるところ、ベッドしかなくてさあ」
「……そこ、だめなの?」
驚いたように見開かれる目をじっと見た。
「………宇髄が嫌でしょ、普通」
「別に、嫌じゃないけど」
この言い方で、俺がそこで寝たいと思っていることが伝わればいいが。彼は超がつくほどの鈍感なので、直接伝えてみることにしたのだ。案の定、そんな発想なかったと思っている表情だ。
先生は少し戸惑っている。まあ、これは流石に図々しかったかもしれないが。
俺がこの人の生徒で、病人だという状況をフル活用して、頼んでみたところ。
「……宇髄が大丈夫なら、いいよ」
ガードが甘いと言うべきか、はたまた無防備というべきか、ちょろいというべきか。
実際、好きな人の家からのベッドまでの道のりが早すぎて自分も驚いている。
(今まで俺が普通の恋愛をしたことがない、と言っても、こんなに早いのはそうそうないだろ……)
この状況に陥ったのが俺だけかどうかが気がかりだった。

先生の寝床は、少し高めのシングルベッドだった。
そこに半ば押されるように寝かされ、気まずそうにした彼がエアコンをつけているのを眺めていた。
「なんかあったら呼んでよ。……じゃ、」
リビングにばたばたと戻っていくのを確認してから、枕に顔を埋め、精一杯吸った。
(…先生の匂い)
実を言うとさっきから待ち侘びていた。車の中でも、玄関に入ってからも、先生のベッドに寝れるのではないかという煩悩を抱えていた。いや、家に入れただけでもう幸せだったのだが。
毎晩このベッドで眠る想い人を想像すれば、今まで知らなかった俺が飛び出てきたような気がした。
(好きな人の匂いって……───麻薬だな)
新しいものに目覚めた気がする。

゚+o。◈。o+゚+o。◈。o+゚+o。◈

しばらく落ち着いて眠っている様子の彼を確認し、起こすのを少し戸惑った。
熱中症の時は食事を怠らずに摂った方がよいと聞いたので、様子を見るためゼリーを持ってきたのだが、眠っているため後にした方がよいか迷った。
彼は枕に顔を埋めるように俯せに寝ている。
今にも窒息しそうに見えて、顔をすこし上に向かせてやると、彼のきらきらとした銀糸がはらりと手に触れた。
「んん、」
すこし空いた彼の唇に指が触れてしまった。
「…っ、」
さっと手を離すと、彼はまたすやすやと寝息をたてはじめた。
少し紅い頬と、光る髪、長い睫毛が、あの時の光景をまた蘇らせた。
(…体調悪いからって家に入れて、世話して……自分のベッドで寝させるって……)

───俺も相当絆されてるな…

勝手に紅くなる頬を手で覆った。
すると、彼の額に貼り付いていたものが温くなっていたら替えるための冷えピタを持ってきていたことを思い出した。
慌てて彼の額のそれに触れてみる。案の定、彼の熱を吸って温くなっていたそれをゆっくりと剥がした。
んん、と声を漏らす彼を見てなんとも言えない気持ちになる。興奮?背徳感?罪悪感?そのすべてに当てはまる気がして、やけになって新しいものを彼の額にそっと貼り付けた。
(……なんで、俺のベッドで寝たがったの…)
彼の重みで皺を作るシーツを眺めて疑問する。
瞼が上がらないことをいいことに、危機感のない彼のそこに目線が寄る。
(こいつは、生徒で、病人。)
それも、いつも無邪気で、たまに色っぽくて、何考えてるか分かんなくて、でも、すごく……すごく、すてきな子。
何度もときめかされたこの子供らしくない子を眺めていたら、高鳴る心臓に対して落ち着いている頭が妙にあつくなった。
その気持ちが何かも分からないうちに、体は勝手に動いていた。

───彼の瞼に唇が触れる。

音も経たなかった。ただ、俺の唇が触れた感覚がしただけ。それだけなのに、俺は自分の行動への驚きと羞恥で、その場から逃げ出してしまった。
(…お、俺、何した……!?)
涼しいはずの居間に戻っても、真っ赤で熱い顔が元に戻ることはなく、さらには涙まで出てきてしまった。
(どうしよう、俺、)

宇髄のこと、好きなの?

つづく…

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