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第4話

熱中症と鈍感 三
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2021/07/16 23:46












───熱はちょっと下がったみたいだね、体調悪くない?大丈夫?俺ちょっと、買い物行ってくるから、安静にしててね。あっ、ご飯食べてていいよ。じゃあね。行ってきます。

口早にそう残して家を出て行ってしまった彼。何故か顔から首まで真っ赤に染めていて、少し疑問に思ったものの、起きた途端の弾丸トークに言葉を返す間もなかった。
あれから少し時間のたった午後六時。俺は眠っていたようで、隣の部屋の台所からはカレーの香りがしていた。
(すっきりした…)
眠る前はぐったりしていた体も、自分のものと比べれば柔らかいベッドで眠ったおかげで軽くなっていた。ベッドが好きな人のものだということも関係しているかもしれない。
ひんやりとした床に足をつけ、体をあげた。腕をのばして背筋をただす。先生の手料理(らしき)カレーの、胃を擽られるような香りに魅せられて、ひたひたと足を進めた。
台所のコンロの上には小さめの鍋が載せられていた。すぐ側に皿とスプーン、それと小さな紙が置いてあった。
『食べれたら食べてね、無理は禁物だよ。
食べ終わったら、出来れば水に漬けといてください。』
先生の手書きの文字。俺の為に書かれたそれと、俺の為に作られたカレーを見比べて、薄らと顔に笑みが浮かんだ。これが「にやける」なんだろうな。その証拠に、ほら、こんなにも嬉しい。
すぐ側にあった炊飯器を開けて、ご飯を多めに入れ、カレーをまた多くかけた。軽やかに感じる足取りを自分で笑いながら、居間のローテーブルに皿を置く。ほかほかとしたカレーライスに空腹を煽られ、正座をして手を合わせた。
「いただきます」
早速スプーンですくい上げて口に目一杯頬張る。程々に辛くて、甘くて、優しい味がした。自然と「うまっ」と口を零してしまい、それから夢中でかき込んだ。空っぽの胃には重いかもしれなかったが、それ程気にならない。何よりとても美味い。これは何杯でもいける。また台所でご飯とカレーを盛った。
米粒のひとつも残さずに食べきると、また手を合わせてご馳走様と告げた。今度は頭も下げた。そして立ち上がって皿を運び、シンクに置いて水を流した。勢いよく流れ落ちてくる、ひんやりとした水に自分の体温が吸い込まれていく。
皿を水に漬けると、カレーの入った鍋に蓋をして、ふぅと一息ついた。
それからベッドに戻ろうかと振り向くと、見慣れない廊下が目に入った。
(ああ、そっか、ここ我妻先生の家だ)
その先生の家に一人でいて、先生の手料理を食べた。
大好きな先生の、家で。
唐突に、意識していなかった幸福感が俺を襲い、頬を冷えた手で覆った。幾らか熱が逃げ出して、羞恥に燃えた頬が柔く溶けた。
(これは、同棲してるみたい)
思春期特有、脳内自己中妄想。好きな人に関してだけは許してくれと誰にかも分からない懇願をして、軽く頭を下げた。すると、脚、だけでなくて自身を主張するズボンの膨らみが目に入った。
あっ、と気づいた頃にはもう遅い。すこし元気づいて、空腹も満たされればそりゃあ勃つもんは勃つ。しばらく宥めてやれなかった熱を感じて、必死で抑えようと努力する……も、ここは好きな人の家で、どこに居ても好きな人の匂いがする訳で。これを抑えることが不可能なことがうっすらと理解出来た。
慰めなければ落ち着かない。だが、慰めるには場所がよろしくない。もしバレたとすれば、恋愛対象になんて見て貰えない。むしろ軽蔑される。
(でも……でもなぁ、)
人間の三大欲求。食欲、睡眠欲、そして性欲。欲に打ち勝つ理性はあまり持ち合わせていない自覚はある。
(申し訳ないけど、でもやっぱり───。)

好きな人の家、それは好きな人の匂いのする私物が溢れる。その人のことを考えて自身を慰めるとなれば、匂いがするものがあればより興奮するのだ。
という訳で、役得だと勝手に納得して、脱衣場のカゴから先生の下着を拝借してしまった。理性なんか微塵も残っていない。
なんなら、毎日毎日、脳内では先生をめちゃくちゃに犯している。見たこともない身体を想像して、色素が薄そうだなとか、筋肉はうっすらついてそうだなとかを考えている。現実では手も繋いだこともないのに。
口の中を舌で舐めまわしてやれば、瞳をとろとろに溶かすのだろうな。胸に並ぶ二つの粒を刺激して潰してやれば、顔を赤くして甘い声を漏らすのだろうな。後ろに指を押し込んで内壁を刺激すればきゅうきゅう締め付けてくるのだろうな…。なんて、現実味のない妄想をして胸を焦がしている。
そんな俺が、好きな人の下着なんて手にすればやることはひとつ。
トイレに篭って、下着ごとズボンを下ろす。先生のものを広げ、息を吐ききってから精一杯、顔を埋めて吸い込んだ。
すぅぅぅ…と音を立てて匂いを嗅ぐと、また俺のものが芯を持った。
「はぁ…ッ」
興奮して収まりそうにないそれを手で包む。勢いをつけて手を動かすと、先から分かりやすく垂れてくる液体が手を濡らす。
「……っ、」
普段は嗅がない、先生の匂い。ドキドキが止まらなくて、顔が熱くて、おかしくなる。
「善逸…っ」
普段は呼ばない、名前。頼むから今だけは。今だけは、呼ばせて───。
また息を吸い、手を動かす。極限まで昂ったそれが、とどめを刺すように熱を吐き出した。

゚+o。◈。o+゚+o。◈。o+゚+o。◈

ただいまぁ、と声をかけて自宅の扉を開く。普段は誰も居ないはずのその家には、自身の教え子である、宇髄がいる。今はもしかしたらご飯を食べているかもしれない、と少し大きめな声で呼んでみたが、返事はないのできっと眠っているのだろう。
その宇髄のことだが、ついさっき、俺は彼への恋を自覚したのだ。いつも生意気で、ドキドキさせられているあいつのことが好き、だなんて本人に知られたら、もう実質死刑だ。社会的制裁を受けなければならない。
それに、宇髄だって俺に、特に深い感情を持ってる訳じゃない。イタズラをするのに丁度いい、面白い教師だと思ってるに違いない。
もしそれが違っても、教師と生徒の恋愛なんてファンタジーでしか有り得ない。ドラマでも、法に触れてるようなことをしている。俺たちはドラマじゃない。ノンフィクションだ。アイスの件はまだよしとして、これから何かあったらもう本当に駄目だ。俺は犯罪者になる。
この恋心は完全に封印する。そう心の中で誓えば、じくりと心臓が抉られた気がした。

台所に向かってシンクを見ると、そこにはまだ汚れている皿があった。水が入って汚れが少し浮いている。
ああ、カレー食べたのか。そう思ってベッドに向かおうとしたら、トイレの鍵が掛かっていることに気づいた。小さなすりガラスの窓から光が刺している。
(トイレにいるのね。なるほど。)
特に何とも思わなかった。思うとすれば、居場所が分かって安心したくらい。それから音が聞こえなければ、そのままで済んだ。

「……っ、あー…、ぜん、っ…」
くちゅ、くちゅっ。

(…………は?)
これは───宇髄の声。
そうじゃなきゃ、トイレから心霊現象が起こっていることになる。でもそこには宇髄がいる。
では、声の内容は?何かを堪えているようだった。そして、きっと俺の名前を呼んでいる。普段は「先生」だとかで呼んでいるから、呼ばれたことはない下の名前。
それで、一緒に聞こえてきたのは、とろみを帯びた液体の潰れるような音。
声と音と、それだけを聞けば、男性なら誰でもわかる。聞いたらちょっと気まずくなるくらい。でも、俺の家でその行為をする事と、呼ばれている名前が俺の名前だったということで、少なからず混乱した。
なんとも思っていない教師の名前を、自慰の最中に呼ぶだろうか。普通なら、その時に呼ぶ名前といえば、好きな人のことを呼ぶはず。
(…ということは、つまり…もしかして、俺の事…───。)
これは自惚れじゃないと思う。
必然的に赤く染まった頬と、冷めた汗が俺の体温を支えた。水滴がぽたりと床に落ちた。

それから宇髄がトイレから出てきたのはすぐだった。俺も、すこし気まずかったので、隠れるように二階に駆け上がった。その時のドタバタとした音で彼は帰宅したことに気づいたと思う。
それからすることも無かったので、今朝掃除したばっかりの廊下を拭いていたら、宇髄が「……先生」と声をかけてきた。
「…ん、どしたの」
声が上擦ったかもしれない。
(これは気まず過ぎる!!…好きな人が自分の名前呼んで…その、アレしてた直後だもん…!!)
目線は向けられなかった。
「…なんでもない、」
宇髄の声も心無しか小さい。普段からは考えられない程、ぼそぼそとした声だった。
「…そっか、」
きっと彼も気づいている。
俺が彼の自慰に気づいていることを。
それを言わないのが暗黙の了解。二人だけのなんとなくの空気。破る気も、破りたいという気もない。
(でも、言った方がすっきりすんのかな)
てらてらと水に濡れて光る床に自分が映った。そこに映る自分の顔は、分かりやすく紅潮して、喜びと不安と居た堪れなさが入り交じっていた。

つづく…

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