第2話

涙の音
104
2019/12/01 04:26
橋山涼香
橋山涼香
「あ!夕陽ちゃん!」
二階の中央階段から右に一つ目の部屋を通ったところで、向かい側の一つ目の部屋の中から涼香すずかが出てきた。涼香は伝染病にかかり、容態が悪かったことから入院していたけれど、それももう後二日で終わる。
橋山涼香
橋山涼香
夕陽ちゃん、お医者さんの所いってたんでしょ?
利根川夕陽
利根川夕陽
うん、そうだよ。
元気な声であいさつをする涼香の姿は、初めて見た時よりずっと元気だった。初めて涼香を見た時は、顔色も悪く荒い息で必死に呼吸をしていた。小学三年生が背負う病にしては、治る病であるはずなのに、酷く重いものに見えた。
その時の光景を振り払うように、涼香の目線に合うよう体をかがめた。
利根川夕陽
利根川夕陽
涼香も、これからお医者さんの所に行くの?
橋山涼香
橋山涼香
うん!明日が終わると、もうお家に帰るから。
元気よく返事をした割には、表情は曇っていた。そのまま下を向いてしまい、小さな手で、さくらんぼの刺繍の入った赤い色のワンピースの裾を握った。家に帰るのがそんなに嫌なのだろうか。いや、そんな訳ある筈がない。家族が見舞いに来ると、どんな時よりもキラキラした笑顔で笑っていたではないか。
利根川夕陽
利根川夕陽
涼香、お家に帰るなら笑顔でいなきゃ。
目の前の小さな頭に手をそっと乗せて言うと、私を見て小さく笑った。だけどその笑顔は、涼香本来の笑顔でないことは明白だった。
橋山涼香
橋山涼香
おうちに帰るのは嬉しいの、でもね・・・。
そこまで言うと口ごもってしまった。
利根川夕陽
利根川夕陽
でも?
その先を聞かせて、と言うように涼香の言葉をなぞって言った。すると、私の言葉に背中を押されたように、涼香は顔を上げて私にしがみついてきた。慌てて涼香を抱きとめると、私の胸の中で泣きそうになりながら言葉を紡いだ。
橋山涼香
橋山涼香
お家に帰ったら、もう夕陽ちゃんと遊んだりできない・・・。
思ってもいなかった言葉に衝撃を受けて、数秒の間、何も言えなかった。その代わりに、涼香の小さな体を優しく抱きしめた。
利根川夕陽
利根川夕陽
涼香がお家に帰っても、あそびにおいで。私はここにいるから。
私の言葉に、涼香は顔を上げて不思議そうに、大きな目を瞬かせた。
橋山涼香
橋山涼香
夕陽ちゃんは、お家に帰らないの?
子供ほど、素直に痛いところをついてくる。涼香曰く、「あたしはもう十分お姉さん!」らしいが、私からしたら、まだまだ可愛い子供だ。
腕を解いて、涼香の頬にそっと触れた。
利根川夕陽
利根川夕陽
私は、まだ帰れないの。
そして、子供ほど変な所で勘がいい。今度は私が、無理な笑顔を作る羽目になってしまった。そんな私の手を握って、首を少し傾げた。
橋山涼香
橋山涼香
夕陽ちゃん、元気ないね?
利根川夕陽
利根川夕陽
そんなことないよ、あんまり眠れてないのかも。
無理矢理にでも誤魔化そうと思って嘘をついたが、涼香の目は誤魔化せなかった。懸命に首を横に振りながら涼香が答えた。
橋山涼香
橋山涼香
嘘でしょ?だって夕陽ちゃん、眠れてない時機嫌悪いもん。何か嫌なこと、あったんでしょ?
利根川夕陽
利根川夕陽
ははっ。涼香には、適わないねぇ。
涼香が泣きそうな時に私がいつもしていたように、涼香が私の目尻にそっと触れた。その手を受け入れるまま目を閉じると、鈴のように軽やかな声で、可愛いお願いが聞こえた。
橋山涼香
橋山涼香
神様、神様。夕陽ちゃんはいい人です。だから、夕陽ちゃんを笑顔にしてください。
お願いを最後まで聞いてから目を開けると、世界がぼんやりと滲んでいた。泣いてる。私、泣いてるんだ。人前で、それも私よりもうんと小さな子の前で。なんだかいたたまれなくて、必死で目を擦った。それなのに、久しぶりに誰かの前で流した涙は、止まってくれそうになかった。拭えども拭えども溢れてくる。薄く開いた唇から、一粒の涙が口の中に入ってきて舌に触れた。
利根川夕陽
利根川夕陽
(しょっぱい)
自分の涙の味に顔をゆがめると、じっと私の顔を見ていた涼香が口を開いた。
橋山涼香
橋山涼香
夕陽ちゃんの涙、綺麗。すごく静か。
利根川夕陽
利根川夕陽
静か?
締まりのない顔で私が聞き返すと、今度は大きく首を縦に振って答えた。涼香は時に、思いもよらぬことを言う不思議な子だと、担当している看護師さん、宮下さんも言ってたっけ。
橋山涼香
橋山涼香
そうだよ!お母さんが言ってたの。涙には音があって、悲しい時とか、すごーく嬉しい時は静かなの。怒ってる時はうるさくて、面白い時は賑やかなの!
利根川夕陽
利根川夕陽
じゃあ私は今、悲しいの?
ニコッと笑っていた涼香が、私の問いを聞いて、直ぐに悲しそうな顔になった。子供相手に何を言っているんだろう。私が悲しいかどうかなんて、涼香にわかる筈もないじゃないか。そうは思っても、崩壊してしまった心を塞ぎ止める方法なんて知らなかった。涼香のくれる、甘い優しさに身を任せてみたかった。
橋山涼香
橋山涼香
夕陽ちゃんは、悲しいの。だから、こんなに涙が静かなの。
利根川夕陽
利根川夕陽
そっか。
あのね、涼香。私はもう外へは行けないんだよ。そう言おうとした時に、宮下さんがお医者さんのところに行こう、と涼香を呼ぶものだから、それを言うタイミングを無くしてしまった。とてもいい人なんだけど、宮下さんはたまにタイミングが悪い。これ以上話をすると宮下さんにも迷惑だし、何より収集がつかないくらいに泣いてしまいそうだ。それを、どちらかと言えば後者を危惧して、涼香が返事をするより早く、私は立ち上がった。最後に頭を撫でると、えへへ、と嬉しそうな声を漏らした。
利根川夕陽
利根川夕陽
涼香、行っておいで。
名残惜しく涼香を見ると、屈託ない笑顔で笑った。私を、勇気づけようとしてくれている。その笑顔のまま、くるりと後ろを向きながら言った。
橋山涼香
橋山涼香
じゃあ、またね!夕陽ちゃん!遊びに来るからね!
利根川夕陽
利根川夕陽
うん、またね。
涼香が階段を下りて姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立ち尽くしていた。頬を伝う涙はもう乾いてしまって、そのせいで固まってしまった頬を解すように、再び無理矢理笑顔を作った。
利根川夕陽
利根川夕陽
なに、やってるんだろう。
低い声で独りごちて、さっきよりも重い足取りで、私の病室までのほんの少しの距離を歩いた。このまま倒れて、いっそのこと消えてしまいたかった。それでもこの世界は非情で、「利根川 夕陽様」とだけ書いてある紙が貼ってある、真っ白で何も感じられないドアに辿り着いてしまった。
利根川夕陽
利根川夕陽
(開けた先が自由だったらいいのになぁ。)
なんて、そんな期待も虚しく、待っていたのは私のいつもの病室だった。

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