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第5話

肆/傘 炭side
……わずか、30分前の出来事。
先程まで持っていた傘を投げ、俺はただひたすらに走っていた。
身体は酸素を求めて喘ぎ、心臓は痛いくらいに鼓動を刻んでいる。
汗なのか雨なのかわからないけれど、服が肌に貼り付いていて動きにくい。もう止まりたい、足をゆるめたい。
けれど、アスファルト上に何かを引きずる耳障りな音は、未だについてきている。
恐怖と不安を少しでもおし殺したくて、かばんを握りしめながら、身を隠せる場所を必死に探す。
傘、善逸がくれたのにな。
今さらそんなことを考えていると、路地裏への角を見つけた。
「(……!!あった!!!)」
滑り込むようにして角を曲がり、近くにあったゴミの入ったポリバケツの裏にしゃがみ込む。
悪臭を我慢して肩で息を整えるものの、上手く息が吸えない。
……なんなんだ、あの人は。
その男の人は、両手に鋭い爪を持っていた。
それも、何でも切り刻めそうな。一目見ただけでも、『捕まったらまずい』と悟った。
爪以外にも、人離れした肉体、電灯に照らされたときに一瞬だけ見えた真っ白い肌。
_嗅ぎ慣れない、″人以外のナニか″のにおい。
それに足されて、既に手をかけたのだろうか。生々しい鉄…血のにおいが、さらに俺の身体を強張らせた。
そんな人が、なぜか俺だけを見ながら無言で追いかけている。俺はただ、家に帰ろうとしていただけなのに。どうして……ッ。
ポリバケツの裏から、路地の入り口をそっと覗く。
……誰も、いない。
「……?え…??」
雨と、心臓の音だけが聞こえる。それ以外を除けば、まさに静寂だった。
恐怖の対象が唐突に姿を消した安心感に包まれ、路地裏の奥へと目を向けた。

_そのとき。


……白い顔が、目の前に…いた。
音はしなかった。ただただ無音でいたはずなのに。雪のように、白い肌だった。

「ぐ……、ぁ…………っっ?!?!」
突然、熱と共に目の前が赤く染まった。液体が、アスファルト上に飛び散る。
熱い。熱い熱い熱い。

「_はは、やっぱり人間は脆いなぁ……?」
全身に、鳥肌が立った。初めて声を発したその人は、歪な笑みを浮かべ、俺を血走った瞳で見下ろしていた。
「な……に、を…」
何を思ったのか、目の前の相手はゆらりと体を揺らし、やがてねっとりとした口調で言った。
「痛いか?苦しいか?逃げたいか?そりゃそうだよなぁ……。辛いのは誰でも嫌だもんなぁ」
怖い。目の前の存在もそうだが、なによりも
″血の匂いがする″
こんなに濃く、はっきりとした匂いを近くで嗅いだのは初めてのことだった。
どうしようもなく、足が震えた。やがて、全身から力が抜けて、真っ赤に染まったアスファルト上にしりもちをついた。
直感したのだ。自分は死ぬ、と。
全身に鳥肌が立った。あまりの威圧感と恐怖に、声を上げて泣き出したかった。
なのに、声が……出ない。
「声が出ないだろう?そりゃそうだよなぁ……その出血。横っ腹から心臓の辺りまで深く抉られりゃ、一般人はひとたまりもない…」
……え?
熱かった部分へと、感覚のない右腕を持っていく。
…あぁ、……そうか。熱の原因は、これか。
確かに、俺の左の横腹から心臓部分にかけて、深く抉られたような傷があった。
傷口が脈を打ち、その度に鮮血が足元を汚す。
″痛い″ を ″熱い″と錯覚していたのだ。
目の前が、暗転する。
「ぜ……っぃ………………」
「さぁ、久々の稀血だぁ……。」
被さった相手の言葉に、押し潰された俺の言葉。家族よりも、真っ先に脳裏に浮かんだ名前。
「ぜ、ん……いつ…………」
最後に感じ取ったのは、体が倒れたときに跳ねた
_雨の音だった。