次の日、氷音は机の上に乗った日誌とにらめっこをしていた。
閉じられたその日誌。この間は、7月7日以降のページが開けなかった。
7月7日のページを開いて、緊張しながら次のページを開く。しっかりと開くことが出来た……のだが。
7月8日の日誌。
そのページに書かれていた文章はぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。
そして、その黒く塗りつぶされた部分の下には、
「見せないで」
と、小さく書かれていた。
その後も、その後も、その後も。
何ページも、文章が黒く塗りつぶされたページが続いた。
だが、途中で、不意にページを捲ることが出来なくなった。
7月15日の日誌までは見ることが出来た。だが、その内容は全て黒く塗りつぶされた文章。
氷音は、「はぁ……」とため息をついて、15日の日誌を見た。その下には、
「ごめんね、俺らの可愛い子供たち」
と、小さく書かれていた。
”俺”という一人称の人は、あの6人のうちの4人、会ったことがある。というか、あの6人のうちの今会ったことがある人は皆、一人称が「俺」だった。
考えていると、部屋の扉をコンコンコン、とノックする音が聞こえた。
恐らく、メイドだろう。
「お坊ちゃま、昼食の時間でございます
旦那様と奥様が、早く来るように、と。」
声と呼び方から、氷音の専属のメイドであることがわかった。氷音の専属のメイドは、アリス・ロン・リーフィーカという若い少女。20歳を超えているが小さくて、だが大人っぽく、家事炊事を完璧にこなせる女性……否、少女。
部屋を出ると、アリスは小さく微笑んだ。
整った顔立ちで微笑むアリスを横目に、氷音は日誌のことについて考えていた。そして、氷音は立ち止まる。いるじゃないか、すぐ近くに。
氷音が物心ついた時から、姿が全く変わらない、少女が。
氷音がそう聞くと、アリスは足を止め、その場に立ちつくした。不思議そうに氷音がアリスを見ると、アリスは、少し青ざめた顔で氷音を見ていた。
口調こそ変わらないものの、焦ったような声色までは隠しきれていないようだった。
焦ったようにそう言うアリスを見て、氷音は言った。アリスの、黒っぽいその目をじっと見つめながら。
広い廊下が、静寂に包まれた。
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100年以上前……
広い廊下を歩く2人の少女がいた。片や周りから恐れられている小さな少女、片やメイドという不思議な2人組だが、この屋敷の中では日常風景になりつつあった。
「璃那お嬢様」と呼ばれ、少しムッとした様子の璃那。
そんな璃那は、自らを「璃那お嬢様の専属のメイド」という少女を見た。
そういった璃那は、少し考えてアリスに向かって腕を伸ばした。
目の前の小さな、7歳の少女。だが、曲がりなりにも彼女は主人。流石に、と躊躇しかけたアリスだが、主人の命令を聞けずしてメイドは名乗れないと、異様に軽い璃那を抱き上げた。
アリスは絶句していた。彼女は、黄蘗家の次期当主だ。なのに、食べられたものじゃないような食事を出されているのか?
メイドの自分たちにさえ、美味しい食事と暖かい寝床が用意されていると言うのに。
平気な顔でそう告げる璃那を庭へと送るため歩きながら、アリスは再び絶句していた。
そんな、そんなの。富裕層でなかったとしても、食べないだろう。
腐ったものや生のもの、ましてや虫が集ったものなんて論外。衛生面はどうなっているのだろうか。
アリスは、混乱していた。
義理とはいえ、両親に言われたら、この少女は腐ったものでも、生の肉でも食うのか?と。
正直、アリスは富裕層の人間が嫌いだった。スラム街育ちの自分の立場なんてわかってくれないだろうと思っていたから。
でも、この少女を見て、安心してしまった。だって、この少女は。
スラム街にいた頃の自分よりも、痩せ細っているから。
肉がついてないんじゃないか、と思うほどの細さ。腕や足は骨だけのようで、お風呂の世話の時に見た服で隠れた胴体部分は、肋骨が浮きでているだけでなく、殴られたような痣、切られたような傷、タバコの火を押し付けられた跡まで。
庭について、庭に置いてあるベンチに腰掛けたアリスは、隣にちょこん、と座る璃那に尋ねた。
腐ったものも、生のものも義両親の言うことなら食べるこの少女は、正気なのだろうか、と。
アリスがそう言うと、璃那は、間髪入れずにこう言った。
まるで、こう聞かれたらそう答えろ、と言われているかのようなスピードで。
あはは…、と、ぎこちなく笑う璃那。アリスはそんな璃那を見て、怖くなった。自分より何歳も年下で、まだ、空を飛ぶことを夢見ていたり、鳥や虫と話が出来るおとぎ話を信じているような、小さな子供なのに。
なぜ、こんな縛りつけられているのだろう、と。
まだ、お姫様になることを夢みているような、小さな子供のはずなのに。
この少女は、璃那は、「お姫様にはなれないから」とでも言うかのような顔をしていた。
まるで、操られているかのように言う璃那。
もしかして、脅されているのだろうか?こう言え、と。
その言葉に、璃那はぴく、と反応した。怯えたような、驚いたような顔で、アリスを見た。
「そんな、冗談でしょ?」とでも、言いたげな顔で。
璃那は、黙り込んで俯いてしまった。その言葉に、声も出ないのだろうか、とアリスが心配した時、璃那は小声で何かを呟いた。
涙をぽろぽろと零しながら璃那は俯いていた。
7歳の少女に向けられた殺意。
涙ながらに告げた璃那は、涙をふいて、ベンチから降りて立ち上がった璃那は、「勉強しなきゃ」と言って、部屋に戻った。
1人庭に残されたアリスは、璃那の言葉を思い出す。
アリスの声は、誰にも届くことはなかった。
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氷音の問いに答えず、何とかやり過ごしたアリスは、自室に戻ってため息をついた。
そして、一冊の本を取り出す。小説や日記などではなく、それは、一冊の絵本。
遠い昔、アリスの”主人”が唯一好きだった絵本だった。
遠い昔に呼んだ名前を呼ぶことは、自分にはできなかった。ただ、昔呼んでいたように「お嬢様」と、呼ぶことしか。
今頃、何をしているだろうか。美味しいご飯を食べて、ふかふかの暖かいベッドで寝て、幸せになっているだろうか?
”お姫様”のような、わがままを言って、笑えているだろうか。
そんなことを考えて、アリスは絵本の最後のページを開く。
そこにあるのは、アリスの昔の主人が、小さかった時に撮られた、満面の笑みを浮かべる、昔の主人の写真だった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。