焔羅様が、そっと私の額に口付けた。
その瞬間、微かな熱が額に灯り、身体の奥へとゆっくりと染み込んでいった。
そしてピキ、という音とともに、私の額にあった角が壊れて消えていくのが分かった。
と同時に、ずっと閉じ込められていた記憶が、堰を切ったように溢れ出す。
低く、苦しげな声だった。
けれど、私はすぐには問い返せなかった。
まるで深い水底に沈められたような感覚に、呼吸を忘れていた。
震える声が、ようやく喉から漏れた。
焔羅様はしばし黙り込んで、そして静かに言った。
──え?
その言葉が、空気の中に溶けていくように遠のいていく。
私は目を閉じ、舞い戻る記憶を遡った。
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私は、中学二年生だった。
父の死をきっかけに母方の祖父母を頼って、神田多町へ越してきた。
古くから鬼神伝説が残るこの土地は、どこかよそよそしく、冷たい空気を纏っていた。
人々の視線も、噂話も、外の人間を拒むかのように閉ざされていて、入り込めなかった。
そして祖父母にも見限られ、ネグレクト気味だった母はますます私を避けるようになっていった。
仕事で遅くなると言いながら、知らない男を家に連れ込むようになり──気づけば、その男が家に常駐するようになっていた。
鮫島と名乗ったその男は、粗暴で、すぐに怒鳴る。
そして私に暴力を振るった。
母は最初、その事実を知らなかった。
鮫島の暴力は徐々に過激になっていった。
学校でも、家でも、誰にも助けを求めることができなかった。
だけど。あの日、唯一の味方が現れた。
————それは美しい黒猫だった。
漆黒の毛並みに、焔のように赤い瞳。
寂しいとき、苦しいとき、何も言わず隣にいてくれた。
声に出して話しかければ、鳴いて応えてくれた。
涙を落とすと、顔をぺろりと舐めてくれた。
その優しさが、どれほど救いだったか、言葉にはできない。
猫に話しかけるふりをして、誰にも言えないことを毎日こぼしていた。
「今日もやられた」「誰も助けてくれない」「死にたいと思ってるのに死ねない」
私のそんな言葉を、焔は、否、あの黒猫だけは、全部聞いてくれていた。
今なら分かる。あの子は……焔羅様だったと。
思い出した瞬間、胸が詰まった。
あのとき、私は確かに、生きるために焔を抱きしめていた。
でも、それでも、どうしようもない現実に押し潰されて……そして、私が命を落としたあの夜の記憶が蘇る。
終わりの夜、そしてすべての始まりの夜──。

















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!