私の今までの人生に、幸せとか楽しいとか面白いとか、希望とか夢とか、そんな華々しい言葉は似合わない。
やれと言われた事をやり、やるなと言われた事はやらない。
やりたいは許されなかった。やりたくないも、当然。
私はただ、指示通りに動いて、指示通りに生きる。
誰かに定められた設計図を組み立てるだけの、味も素っ気もない人生。
生まれた時からそんな人生だったから、それに疑問を持つこともなかった。
この狭い建物が、私の全てで。
とある真夜中。開いていた窓から飛び込んできた彼女が、そんな人生を狂わせた。
真っ黒な服を着て、真っ黒な手袋をして、真っ黒なマスクと帽子をして。
常に真っ白だったこの家のご主人様とは真反対で、腰が抜けて立てなくなった私を一瞥して去っていった。
暫く立ち上がることも、口を開くことも出来ずに。
その場に座り込んでいた私の耳に突き刺さった、いつも冷たかった声。
何を言っているのかも分からないその声が、突然強く響いて、消えた。
生まれて初めて聞く、今だからこそ分かるあの聞くに絶えない断末魔の叫び。
真っ黒の服とマスクに、金属のような強い香りを付けて戻ってきた彼女が言った。
"...逃げよっか?"
まるで意味の分からない言葉を発したその人は、腰の抜けた私を背負って。
生まれた時からここにいる私ですら知らなかった部屋に連れ込んで、私をソファに座らせ。
今は何故か、この部屋にある書物を漁り始めている。
何を言ってるのかよく分からない。
生まれてこの方ご主人様の言う通りに生きてきたし、それが正しい生き方だと思って生きてきたから。
何も辛くなんかなかったし、特に話したいこともなかった。
目の前のその人は、極限まで苦笑いをした後に小さく舌打ちをして、また資料に視線を戻しながら話を続けた。
そのどれもが、私にはまたよく分からない事ばかりで。知らない人の名前が出てきて、すごく楽しそうに話してるけど、私はどう反応したらいいのか分からない。
そもそも、話していいのかも、分からない。でもなんとなくこの人の言ってる事は理解できる。ご主人様が優秀であれと、私に本を読ませてくれていたから。
それでも友達はいるの?とか、ご主人様に教えてもらったこと以外は分からない。答えられない。
唯一分かるのは、この人はきっと私と同じくらいの歳で、私よりもずっといろんな所を歩き回ってきたんだろうな、くらい。
そう言うと、未だに黒いマスクで覆われている顔の眉間にしわが寄った気がした。
私が失敗すると、いつもご主人様がしていた顔。あの顔を見る度に怖くて、何も言えなくて、何も出来なくなる。
舞い戻ってくる昨晩の記憶。
取ってこいと指示されたものとは別の種類のお酒を渡した瞬間、その顔をして。傍にあった木製定規で、私の腕を強めに叩いた。
あの木製定規は、もう慣れ親しんだものだった。昔から、何かにつけてそれで叩かれて。最初は少し痛かったけれど、今ではもう痒いものだった。
未だに、ご主人様が亡くなった実感が湧かない。亡くなった場所を見ていないからかどうかは定かでは無いけれど、また明日には呼び出されるのではないかと。
ふと目の前の人が顔を上げた。音を立てて交わった視線の先には、何かを思いついたような表情。
私は、どうしたい...?
分からないよ、そんなの...1度だって、何かをやりたいと思えなかったんだから。
何かを試すような、力強い視線が至近距離で向けられる。
私が座っているソファの目の前にしゃがみこんで視線の高さを合わせてくれたからか、さっきのような威圧感はない。
この人は、なんだか楽しそうな目をしている。ご主人様のような冷たい目ではなくて、以前私を躾ていた女の人のような軽蔑の目ではなくて。
楽しそうで、暗い書斎の中なのに何故か輝いて見える。小窓から差し込む月光すらも上回るほど、綺麗に。
...私は、どうしたら、いいの?
突然私の手を引いて、数冊のファイルを片手に歩き出したあなたのニックネーム...さんは、書斎の扉を蹴っ飛ばして早足でどこかに向かい始めた。
いつもは足音を消してすり足で歩いていた廊下を、パタパタと音を響かせて走っている。それがなんだか不思議な気持ちで。
ここもまた、私が踏み入ったことの無い場所。
2階へ通ずる階段を、彼女は少し遅くなった足取りで登っていく。
登り終えて、廊下を右に曲がった突き当たり。1つの少し小綺麗なその扉をまた蹴り飛ばしたあなたのニックネームさん。
......っ?!ここ、は...
私を連れ出したその場所は、見た事もないほどに綺麗な、綺麗、な...星空、で。
いつも小窓から見つめていた星が、こんなに沢山ある。
いつも数えていた星が、目が回るほどに沢山ある夜空に少し足がすくんでしまった。
...私は、どうしたらいいのか、まだ迷ってる。突然ご主人様を殺したなんて言われて、ただでさえ整理がついていないのに。
殺した当の本人から、一緒に行こうと誘われている。殺人犯に。
でも、この人の目は嘘をついてるようにも思えなくて。
確かに私はまだ、何も知らない。本にあったふぁつしょんとか、海の外にある外国という国も、知らない。
...私は、ここを出てもいいのかな
突然、目の前が弾けたような感覚に陥る。
私の手を引くその人がはにかんだ途端、世界がひっくりかえったかのように。
その瞬間、私の身体は宙に投げ出されて。
初めて感じるその温かさが、私を引き寄せて。
落ちる感覚は気味が悪いのに、少し金属臭がするその身体にゾッとしたのに。
この人と感じる風は、少し心地良い。
身体に軽く衝撃が走った。もう地面にぶつかってもおかしくないのに、想像してたよりも痛くない。
足音がする。聞いた事のないほど早い音。
きゅっと瞑っていた目を開くと、そこには。
月光に照らされた、楽しそうに笑う貴女の素顔があった。
続きをぷらいべっつぁーで書く書かないか迷ってますとか言ってみる
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。