ある春の日。思い返せばもうあの瞬間からこうなることを予感していたのかもしれない。
初めて目が合ったあの瞬間。声を聞いたあの瞬間。初めて言葉を交わして、その素肌に触れた瞬間。
自分でも嫌気がさす程の勘の良さ故に、私はあの瞬間から、あなたを他とは違う特別な存在として認識していたのかもしれない。
もう、戻れない。自分から誘い出しておいて、今更になって怖くなったなんて弱音は吐けない。
なにより、この日をずっと待ちわびていたのだから。夢にまで見たこのまたとない機会を自ら手放すなんて。
できるはず、ない。
『なぁ、なんで来てくれたん?』
「...紗夏が誘ったんでしょ?」
『それはそうなんやけど。お泊まりとか嫌いって言ってたやん』
「まぁ、他の人だったら断ってたよ。」
『え?』
「紗夏が誘ってくれたから来た。それだけ」
『......なんなん、それ』
親睦会、なんて名目で初めてのお泊まりを計画。当然不可解な表情浮かべられた。そんなもの開く必要あるのかとまで言われて、それでも何とか実現に漕ぎ着けた。
以前に私があなたの家に押し掛けたあの日から、なんとなく距離を置かれているような気がして。
それが堪らなく苦しくて、虚しかった。だから、誘った。
あの日からずっと、私の頭は一日中[FN:名前]のことでいっぱい。仕事の話も何もかもが二の次三の次。
ふと視界に入る彼女の、私よりほんの少し大きい背中。綺麗な艶髪と、若干低めの心地よい声。時折交わる視線が、脳内を埋めつくして離れてはくれない。
数年間、そんな日々を過ごして。人事異動で部署どころか階まで離れた時は、人生の終わりだと思ったくらい私の中の大部分を占めている。
そんな人間から、私が誘ったから。私に誘われたから来たなんて言われて舞い上がらない人間はいるのだろうか。
言い方の問題?いいや、違う。数多の人間を見てきた紗夏には分かる。
少し伏せた視線と気まずそうに上がった口角。ほんのり染る両頬は、きっと紗夏と同じ感情である証拠。
あなたが来てくれるから。そう思って部屋のスタイルも一新。少しでも印象に残ればいい。そう思って、落ち着いた色のレッドカーペットを敷いた。
あの日彼女が炊いていたアロマキャンドルも購入済み。クローゼット内も軽めに整理。ひょんなことから雪崩が起きるなんてダサいことしたくない。
そして今。彼女が私の空間に訪れて数時間が経った。
私はもう、今日でこの関係を抜け出すつもりでいる。その為に、呼んだのだから。
...あの一件で、少なからず彼女は私をそういう目で見てくれたと、思うから。
「...紗夏?どうしたの?」
『ん?いや...なんか、寂しーなーって』
「あぁ...でも、ちょっと近い、よね。」
『そ〜?ええやん、これくらい。』
「まぁ、紗夏がそう言うならなんでもいいけど」
『...やっぱり、危機感ないよな。あなたって。』
「は?何急に......?!」
正直今でも、本当にこのやり方が正しいのかは分からない。
でも、もう他の方法を考えている余裕なんてない。
私と同じ部屋で、私の貸した服を着て、私と同じ香りをその綺麗な髪から靡かせる。それだけで紗夏にとっては昂る原因で。
いっそ嫌われてもいいから押し倒して、たった1枚の下にある素肌を全て見つめてしまいたい。その香りと、声と、吐息を全て、全身で感じたい。
無理矢理でもいい、ただ全てを知りたいだけ。
「ねぇっ、今何、してるか、わかってるの!?」
『おん、分かってる。』
「分かっ...分かってるなら、やめて。私達、そういう関係じゃないでしょ...?」
『そういう関係になればええんやろ』
「何を馬鹿なことを...」
『冗談やないけど?』
「っ...ちょ、待った...だめ...!」
その少し細くて白いけれど筋肉の筋が浮かび上がってる手首も、好き。少し焦った瞬間に揺れるその瞳も、上擦った声も、全部好き。
気まぐれで腰に忍ばせた紗夏の手を振り払おうにも振り払えないまましばらく我慢してくれるのも。
スキンシップなんて慣れてないくせに、紗夏が背中に手を回せば返してくれるのも。
些細な優しさが、全部好き。
その優しさを全部、全部私だけのものにしたい。私以外には向けられることのない、唯一無二のものにしたいの。
嫌がっても抵抗しても、絶対に力を入れないように配慮してくれる。
今だってそう。そんなに力を入れてないから簡単に振り払えるはずなのに、言葉を発するだけで振り払うことはしない。
分かってる。この人は、紗夏には強く当たれないんだって。
だから紗夏は、どこまでもその優しさに漬け込んでしまおうと思う。
彼女の両手を、彼女の頭上に押付けて。ここまで来ても抵抗しないあなたを見て、どこか図に乗ってしまった私がいた。
『なぁ、なんで抵抗しないん?』
「抵抗してるでしょ...さっさとやめて、こんなこと」
『突き飛ばそうと思えば突き飛ばせるやろ』
「そんなこと出来るわけないでしょ」
『なんで』
「なん......危ない、からだよ」
『...なら、今から紗夏が何しても受け入れるってことやな?』
「...なんでそうなるの」
『危ないから、突き飛ばさないんやろ?』
「?!ちょっ...!」
自分でも意味が分からないくらい、あなたしか見えない。戸惑ったようなその目と、少し乱れたふくと吐息が、余計に私の何かを急き立ててくる。
もしかしたら、このまま。彼女を自分だけの、私だけの人に出来るかもしれない。
そんな一瞬の油断がもたらした、誤算。
ほんの少し力を緩めた瞬間、視界が大きく揺れた。
跨っていたはずの彼女が、何故か今私の上にいて、押さえ付けていたはずの腕が、紗夏の肩を強く、少し痛いくらいに強く掴んでいる。
『っ、急にっ...!』
「...いつまでも、私が我慢できると思わないで」
『...?!ちょ、どこ触っ...!!』
「紗夏が先にしたことでしょ」
突然向けられた、冷たくて鋭いその視線。本来ならそんな目をされたら怖いと思うはずなのに、今その目を向けられるとむしろ気分が昂ってしまう。
ようやく私だけを見てくれた。ようやく、私に触れる気になってくれた。
そう思うと、余計に。
優しく固定された両手首を、少しでも動かそうものなら。一瞬で強く厳しく力を込められる。それがまた嬉しいと思えてしまう。
頭がおかしくなっているのかもしれない。
アロマキャンドルのせい?一新したスタイルのせい?
どれも違う。
全ては軽蔑するような視線を向けながらも、頬を染めたまま動かないこの人のせい。
あぁもう。いっその事、今すぐこの薄い布切れを引き裂いて欲しい。
私の全てを見て欲しい。その厳かな表情で、私の何を見てどう思うのか。この人の全てを知りたい。
「...なんで喜んでんの?」
『そ、んな...ことっ、ない...!』
あぁ、だめだ
嵌って、沈んで、抜け出せない
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!