「…なにこれ、香水?」
ことり。清春が軽い音を立てて手に当たったものを見れば、シンプルな硝子の香水瓶の中で透明な液体が揺れていた。
何となしに胸元に軽く吹き付けてみれば、上品な花の芳香をベースにムスクがふわりと香る。どこか色めいた深みのあるその香気は、小太郎が付けるには少し大人びているようにも思えた。普段使っているものとは全く違う系統の香りに、誰か他のメンバーが置いていったのだろうかと考えていると、形だけのノックが聞こえた後、返事も待たずに扉が開かれた。
「小太郎ー、…あれ」
「市川くん?」
そこには、風呂上がりなのだろう、上気した肌、濡れた黒髪。ズボンの上にタンクトップ一枚を身に付けただけの慶一郎が立っていた。
「なんで清春だけなん?こたは?」
「部屋交換してるんですよ、今日の夕方から明日の朝まで」
「成程ね…。つかこの前三波斗とやったばっかよな、どんだけ部屋交換したいんアイツ」
「市川くんもやります?」
「いやいいわ、終わった時悲惨なことになってそうだし」
整然と並べられた、余計な物の殆どない慶一郎の部屋を想像して頷く。自分も汚くしているつもりはないけれど、彼には勝てないだろう。
「こたに何か用でもありました?」
「ああ、風呂上がったから次どうぞって。…一々行くのもめんどいから、LINEで送ってくんない?俺今スマホないし」
言われたようにLINEで連絡を終えると、慶一郎はすぐ隣に腰を下ろした。
「部屋戻らないんですね、」
「なに、だめ?」
「いや全然」
そうして他愛も無い会話をする中、不意に慶一郎の肩がぴくりと動いて、清春をじっと見詰める。
「…ん……?」
何だろうと思ったのも束の間、突然胸元に顔をうずめられて硬直する。清春の薄いシャツ越しに至近距離で呼吸を感じて、顔に熱が集まった。
「い、市川くん!?」
「…なんでこれ、お前が付けてんの」
その言葉についさっき付けた香水のことを思い出す。
「もしかして市川くんのですか?ごめんなさい、床に落ちてたから、何かと思って少し出しちゃったんですけど」
「…あの馬鹿……、」
「え?」
「何でもない。…あとそれ、こたのだから謝らなくていいよ」
てっきり香りから慶一郎のものだと思ったけれど、違うらしい。それにしても、清春はかなりの時間小太郎と居るのに、どうして自分が知らなくて慶一郎が知っているのだろう。ただ一緒に買っただけなのかもしれないが、そもそも一度も使っているところを見ていないのに香水は瓶の中ほどまで減っていて、どうにも違和感を覚える。
変なの、と思うのと、慶一郎が膝の上に崩れ落ちるのはほぼ同時だった。
「市川くん!!」
「…っはぁ、…待って、やば…」
「どうしました、具合でも悪いんですか!?」
「や、ちが……、なんで…こんな、」
顔を薄桃に染めて荒い息を繰り返す姿に、熱があるのかと首筋に手を当てる。その途端、びくびくと慶一郎の体が跳ねた。
「ひ、ぁ……!」
甘く上擦った声に、驚いて手を離す。まるで『そういうこと』を連想させる反応に頬がかあっと火照り、直視出来ずに視線を彷徨わせる。
「どっ、どうしよ…、…こたに、助けを…」
「…!…こたはだめ、」
「──僕が、どうかした?」
突如として背後から降ってきた声に振り向けば、そこにいたのは無表情の小太郎だった。入浴を済ませたらしい彼は、後ろ手でドアを閉め、何故か鍵をかける。かちゃりと響く音に、慶一郎が怯えた様に肩を揺らした。
「ねえ。何やってるの?市川くん」
「っちがう、わかんない…!……香水かいだら、へんに、なって」
「…香水?あれ、置きっぱなしにしてたんだっけ?」
「ごめんこた、気になってちょっと付けてみちゃって…、そしたら、それ嗅いでから市川くんが…」
「……へえ、なるほどね」
つい、と小太郎の目が細まり、愉悦そうに唇が弧を描く。真っ直ぐに二人の元へと向かうと、そのまま慶一郎の頭を優しく撫ぜた。
「いいこ、いいこ」
戸惑う清春とは対照的に、慶一郎はただ恨めしげな瞳を小太郎に向けていた。
「…なに、…どういうこと?」
「んー?どしたの、きよ」
「なんで市川くんがこんな風になってるか、分かるん?」
「ああ、それはね…香水の匂いが引き金になったというか?二人の時にだけ付けてるんだよね、」
小太郎は床に転がっていた瓶を指で摘み、「これ」と掲げる。説明を受けてますます意味が分からなくなった清春が首を傾げれば、慶一郎が焦った様な声を上げた。
「ばか、それ以上…っ、言うなよ…!」
「なんで?そんなやらしい顔見せといて、きよが誤解したら大変でしょ?」
小太郎が慶一郎を奪うように抱き上げ、どうするのかと見ていれば、唇を合わせ、深く口付け始める。反射的に清春が目を覆うも、ごく近くから舌を絡ませ合う音や感じ入ったような吐息が聞こえ、羞恥と居た堪れなさで体を縮こまらせる。
少しして音が止み、恐る恐る薄目を開けると、酷く満足気な笑みを浮かべた小太郎と、そんな小太郎にくたりと体を預ける慶一郎が目に入った。混乱の極みに立たされた清春が助けを求めて見詰めれば、くす、と音を立てて小さく笑ってから、ゆっくりと口を開く。
「いいよ、教えてあげる。僕と市川くんが二人の時に、何してるか分かる?」
「?…いや、」
「気持ちいいこと、って言ったら伝わるよね」
予想を遥かに超えた展開に置き去りにされた思考の中で、『パブロフの犬』という言葉がちらつく。知らない方が良かったのかもしれない、と今更ながら後悔が胸を過ぎったけれど、既に手遅れのようだった。
「教えてあげたんだから、逃げちゃダメだよ?」
可愛らしいその声が、まるで悪魔の囁きのように耳に残った。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。