1週間前。
要がこっちに引っ越してきて2日が経った頃。
俺は要の家に呼ばれた。
要は小さなアパートの一室を借りたらしく、
隣との壁が薄いらしい。
「隣の人がセックスしてるのまじで丸聞こえだよ。
聞きに来る?まじでやばいから。」
なんて笑いながら話していたのを思い出す。
もちろんその日要の家に行ったのは、
隣の喘ぎ声目当てでは無い。
要に荷解きが進まないから手伝って欲しいと頼まれたからだ。
俺はものが散乱した部屋を見て呆れながらそう呟く。
仕方なく腰を下ろし、散らかったものを片していく。
俺はそう言うと、近くに放られていた服をダンボールに戻す。
まずは家具をどうにかしなくては……。
そう思っていると、手にもさっとしたものが触れた。
それを手に取る。……黒いニット帽のようだ。
チラッと要を見る。現在、要の頭には俺が手に持っているのと同じようなニット帽が乗せられている。
逆に聞き返されてしまった。
ニット帽被ることに意味なんかあるのか?
そう言うと要は俺に近づき、そっとニット帽を外した。
……?なんだ、被ってなくても何にも変わらないのに…。
どうしてニット帽にこだわるんだ?
要はそう言うと今度は後ろを向き、後ろの髪をかきあげた。
すると、金髪の奥から大きな傷跡が出てきた。
傷は完全に塞がっているが、大きな縫い傷のような…、
……見覚えの、ある傷。
要がそう告げた瞬間、頭にあの日の記憶が流れ込んでくる。
血まみれになった要の姿、
要の前で泣きながら何度も謝り続ける無様な俺の姿。
そう言うと要は俺の服を引っ張り、顔を近づけてくる。
何か言おうと口を開けるが、
唇から漏れたのはカスカスな言葉にならない言葉だけだった。
要はガッと俺の頬を強く掴むと、
今にも唇がくっつきそうな距離まで近づいてくる。
要はそう言うと俺の脚の上に座り、両手で俺の頬を掴み、
強引に視線を合わせてくる。
そういうと要は俺の口に親指を差し込んでくる。
柔らかい指が舌を強く押してきた。
要は小さく息を吐くと近づいていた顔を更に近づけ、
唇にキスをしてきた。
思い切り肩を押され、
背中を打ち付けるようにして床に押し倒される。
ぽたぽたと要の頬を伝った涙が俺の頬に落ちた。
要はそう告げると、右腕を思い切り振り上げた。
……あ、殴られる…、そう察した俺は強く目を閉じて、痛みが来るのを待った。しかし、いつまで経ってもその痛みは来なかった。
恐る恐る目を開ける。
そこには拳を下ろして泣き崩れる要がいた。
俺は要の目を見てゆっくりと深呼吸をし、喋り出す。
俺は要の腕に触れる。自分の手は信じられないくらい震えていた。身体中が恐怖を訴えている。今すぐ逃げ出したいという感情を訴えている。
しかし要はそんな俺の様子を無視して衝撃の言葉を発する。
抱かれるって……つまりはそういうこと、だよな?
なんで…?いや言うこと聞くって言ったからには従うけど…。
要は俺の目をじっと見つめてそう言った。
俺がそう言うと要に腕を引かれ、ベッドの上に押し倒される。
床とは違い、背中が痛くない安心感。
それとは対照的に迫ってくる恐怖。
要の手が俺の服を掴む。
そこからはもう何も感じなかった。
唯一感じるのは痛みだけ。
快感も愛情も温かさも何も感じない。
俺には、要を拒絶する権利はない。
痛みを訴える権利も、愛を求める権利もない。
それが当たり前なんだ。
それで要の気が少しでも済むなら、それでいい。
それで、いいんだ。
要視点。
事後。
腹や腰、肛門の痛みのせいでベッドの上から動けないのだろう。先輩はベッドの上で苦しそうな顔をしている。
自分が先輩のことを好きだって認めたくなくて、酷く抱いてしまったな…。怪我してないといいけど…。
先程殴ろうとしていた相手にそんな心配をしていることに思わず自分で苦笑してしまう。
今回先輩を抱いた理由…。それは自分の気持ちを確かめるためだった。
なんで謝ったんだろう。
好きなのに、傷をつけたから?
俺はその何十倍もの傷を付けられたのに?
もういっそ…先輩が俺を死ぬほど嫌ってくれないかな。 そうすれば、俺が先輩に抱いている死ぬほど重たい好意も消え去るのかな。先輩へのこの想いが消えれば、先輩を思いっきり殴り倒すことができるのかな。
そう尋ねる。……頼む、嫌いって言ってくれ。
俺に、アンタを諦めさせてくれ。
ここまで酷いことしたのに嫌いじゃないってなんなんだよ…。
俺は急に胸が苦しくなる。
……なぜかは分からない。
俺は先輩が入っている布団に潜り込み、
その広めの体に抱きついた。
…あったけぇ。
本当に俺、何してんだろう。
先輩も困ってるんだろうな。ごめんね、先輩。
先輩の大きな手が俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
出会った頃から先輩がよくやる癖だ。
初めの頃はこれをやられると気持ち悪さで吐きそうだったのに、気づいた頃にはこれをやられると安心するようになっていた。それどころか、もっとして欲しいと感じるようになっていた。
あーあ……なんかもう…
先輩が困ったような顔をする。
その顔を見て、ふと思った。
……先輩に逃げんなって言ったくせに、自分の気持ちから1番逃げてんのは俺じゃないか。
先輩のこと好きだって気持ちを認めたくなくて、自分の気持ちを誤魔化すために中学の頃の恨み引きずって先輩のこと脅して傷つけて。
俺ってなんか…子供だな。
そう思った瞬間、
俺の先輩への恨みが急にバカバカしく思えてきた。
あの時から今日まで抱いてきた憎悪は確かに本物だったはずなのに、急にどうでも良くなってしまった。
俺は本当に子供で自分勝手だ。
先輩は俺の言葉を聞き終わる前にそう言葉を漏らす。
そりゃ、あんだけ酷い言葉を先輩に言ったんだ。
あの日のことをあんだけ恨んでいた俺が、突然「あの日の事なんてどうでもいいから先輩のことが大好きで……」なんて言い始めたら先輩が戸惑いを隠せないのも仕方の無いことだ。
今更ながら、
己の行為を深く後悔する。
もう、俺らが愛し合う未来はどこにもないんだろうか。
朝。
目を開くと、隣で眠っていた先輩と目が合ってしまった。
先輩が床に脱ぎ捨てられていた服を着ながらそう聞いてくる。
先輩といられるなら。
俺がそう言うと先輩は俺の頭を優しく撫で、ベッドから降りた。
それから、俺は毎日のように先輩を家に呼び出した。
初めは硬い表情をしていた先輩だったが、日にちを重ねる毎に前までのような明るい顔を見せてくれるようになってきた。
そして毎晩俺らは体を重ねた。
初めての時のように乱暴ではなく、優しく、丁寧に。
しかし、体を重ねる度に先輩との心の壁を実感した。
体はこれ以上ないくらいに近くで繋がってるのに、
心は遠く離れている。
これでは体だけの関係と思われても仕方ないだろう。
これからずっとこんな日々が続くのだろうかと思っていたが、そんなことは無かった。
初めて体を重ねた日から約1週間。
お隣の雨川クンや新賀クンが俺の家に来た。
その際に雨川クンが先輩に言った言葉。
「お前らは付き合っているのか」
その言葉を聞いた先輩は2人が帰った直後、
関係をはっきりさせようと、話をもちかけてきた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!