第12話

弾ける
153
2018/06/18 13:36
本のページをゆっくりとめくるように、2人の間で言葉が投げ交わされる。
麦は、時々、その存在を確かめるようにぎゅっと右手を握った。その度に、柔らかい感触が麦の手のひらを押し返して、麦はため息を吐きたくなる。
それは、まだ先輩に渡ることなく、麦の手の中にしっかりとあった。

こんなものを渡してどうすると言うのだろう。先輩にこれを渡したら、一体どんな顔をする?

考えれば考えるほど、麦は自分がしようとしていることが自分らしくない気がして、心にもやもやと雲がかかったような気持ちになる。
私と先輩の距離は、これを渡しても大丈夫な距離だっただろうか。
何を考えても、頭の中はマイナスの感情しか生まれない。
ならばもう、考えるのはよした方がいいかもしれない。
だけど、でも。

「どうした?」

いつのまにか相槌も打たず、黙りこくってしまった麦を、先輩が怪訝そうに覗き込む。
気づけば二人の足は止まっていて、道の脇にはこないだのバスの停留所があった。

「具合でも悪いのか?」

先輩は心配そうに顔を覗き込んでくる。その形のいい二つの目が私を捉えて、どきどきと高鳴る胸の中、こんなこと前にもあったなと思い出す。
先輩が顔を覗き込んで、私はその瞳の中に映る自分を眺めて。

蝉の声が鬱陶しいぐらいうるさいのに、私の耳には自分の息遣いと鼓動しか聞こえない。

息が止まりそう、もう、どうしようもなく。

心臓がこれでもか、というほど脈打って息が苦しい。誰かの胸に耳を押し付けているかのように、すぐそこで心臓が脈打つ音が聞こえる。顔が熱くて、火が吹き出てしまいそう。
夏だからじゃない。夏の暑さのせいじゃない。いつもより高いところにある太陽のせいじゃない。


ああ、そうだ。先輩がいるから。
先輩が、私の近くにいるから。
それが当たり前になっていたことが、実はどれだけ幸せだったのかということに気付いたから。

「せんぱい。」

麦の唇が、4文字のひらがなを紡ぐ。漢字にするよりも前に、口から飛び出てしまったように響いた。
そして、少し急ぐように右手を先輩の前に差し出す。
そんな麦を、先輩はきょとんとした目で見つめた。

「手、出してください。」

いつか、そう先輩が言ったように。
先輩は、ゆっくりと左手を差し出した。
私より、一回り大きい手。その手に、そっと自分の手を添えるように置いた。


麦の指がゆっくりと開いて、ちりん、という鈴の音の後に、グレーの何かがこぼれるように先輩の手に落ちていく。麦がずっと握り締めていたからか、少し不恰好にひしゃげてしまっていた。
先輩は手の中に落ちたものをしばらく眺めると、「あ、これ。」と小さく声を上げる。

「これ、俺があげたやつ。」

先輩の手には、オオカミのキーホルダーが転がっていた。私がもらったクマのキーホルダーと同じシリーズのもの。
私はそれを見つめ、心を落ち着けるために息を吸う。夏の匂いが、肺の奥の奥まで染み渡っていく。

「持っていて、くれませんか。」

語尾が、少しだけ掠れた。そのことに、ほんのちょっと、また心が揺れた。
私の視線がどんどん落ちて、前に立つ先輩のローファーでぴたりと止まる。
見つめるというよりも、睨むという方が合っているかもしれない。

すると、先輩が肩にかけていた鞄をお腹の方へ回した。
布が擦れる音に顔を上げると、鞄の持ち手に器用にキーホルダーをつける先輩が麦の瞳に映し出される。
倒れていたものを起こすように、先輩はそれを鞄につけた。

ちりん、と小さな音を立てて、オオカミは先輩の鞄にぶら下がる。

「お揃い、だな。」

先輩が麦の鞄についているクマのキーホルダーを指差して、どことなく照れたように笑う。

麦の胸は、嬉しいはずなのにぎゅっと締め付けられたように苦しい。
その笑顔に、胸の奥から泣きたい気持ちが湧き上がってくる。
この気持ちを例えるなら、それは何?
きっと、50音なんかじゃ語りきれない。この世界中探しても、当てはまる言葉なんて見つからない。私の胸の中、湧き上がってくる感情は、いろんなものが入り混じって。

私は、こみ上げてくる気持ちを必死に抑えて、笑った。誰よりも幸せそうで、だけど今にも泣きだしてしまいそうな笑顔だった。


私たちは、子供じゃない。
だから、それなりにうまく立ち回ることはできる。
だけど、大人じゃない。
だから、駆け引きの仕方なんて私は知らない。

それでも、私たちの心にはいつのまにか恋が芽生える。
それは、唐突に、だけど、前から決まっていたかのように。
最後に、枯れてしまうかもしれなくても、その芽はゆっくりと顔を出す。
涙が水となり、笑顔が太陽となる。そうして育っていく。
たとえ、手に負えなくなる日が来ても。


「ったく、お前が急に黙るから腹でも痛いのかと思ったわ。」
「そしたら先輩、私のことおんぶしてくださいね。」
「やだ、絶対やだ。」
「ひっどい。」

私の芽が、この先どう育っていくかなんて分からない。
当然のように、怖さはいつもどこかに座っている。それでも、私はこの芽を育てていくのだろう。

ソーダのような笑い声が、突き抜けるほど青い夏の空に響いていく。
ぱちぱちと弾けて、どこまでもどこまでも、響いていく。

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