第2話

並んだ背中
115
2018/06/15 23:56

ようやく衣替えが完全に終わり、冬服から夏服に変わったこの時期。
放課後の喧騒に背を向け、私は昇降口に向かっていた。
半袖シャツの袖を肩まで捲し上げながら、片方の手でパタパタとうちわを仰ぐ。耳の横の髪が揺れるたびに、頬をくすぐってむず痒い。
下駄箱から茶色のローファーを取り出し、代わりに上履きを入れる。

「あー!夏川先輩だ!」

さて、帰ろう。と肩から少しずり落ちた鞄を背負い直し、ローファーのつま先でトントンと地面を蹴る。
すると、昇降口に遅れて入ってきた人を見つけて、咄嗟に大きな声が出た。

「…お前の口にはメガホンでもついてんの?びっくりしたわ。」

声をかけられた先輩は、さぞ迷惑と言わんばかりの顔で、両手で耳を塞ぐ。

「先輩、最近ジジイ化してきたから、大きい声じゃないと聞こえないと思って。」
「誰がジジイだ。」

そう言って睨む先輩に、麦は屈託のない目を細くして、満足そうに無防備な笑顔を浮かべた。
他愛のない話をいくつか並べながら、一緒に帰りましょうよ、と私が言うと、先輩はしょうがないとでも言うように首を縦に振り、

「俺が嫌って言っても、お前は帰るんだろ。」

と、優しさを含んだ微笑みを私に向けた。
それは、どこをどう切り取っても、かっこいいとしか言いようのない笑顔だった。

「もちろん!さすが、私のことよく分かってますね。」

そう言いながら私は、両手のひらを胸の前で小さく叩くと、そりゃ中学からの付き合いですからね、と先輩が呟くように言う。

「まさかお前もここに来るとはな。」
「だって家から近いですし。それに、私たちの中学からここ行く人多いじゃないですか。」
「まぁ、確かに。」
「私が来たことで、周りが賑やかになって楽しいでしょう?」
「賑やかというより騒がしいけどな。」
「どうせぼっちだし。」

小声でボソッと、わざとらしく呟くと、

「ぼっちじゃない。」

と、言葉をそのままに受け取った先輩が言い返す。

「先輩以外、みんな彼女がいるってことです。」

"ぼっち"の意味に遅れて気づいた先輩がむっとしたような声で、うるさい、と短く答えた。

「先輩、気にしなくて大丈夫です。みんな、いつか彼女できます。多分。」
「やめろ。惨めになるからやめろ。」

そう言う先輩の瞳は前だけを見据えていて、本当に惨めに思っているのかは分からない。
切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇、そんな整った横顔を見つめながら、この人のことを女の人が放っておくなんてありえないよなぁ、と心の中で思った。

「とか言っちゃって、本当はモテるくせに。」
「なんだ、急に。気持ち悪い。」
「気持ち悪いは余計です。私のクラスの子が言ってましたよ?「3Bの夏川先輩ってかっこいいよねー♡」って。」

そう言いながら、同じクラスの仁美に聞かれた時のことを思い出した。
昼休み、琴と食堂から戻ると、何人かの女子でちょうど夏川先輩の話をしていたらしい仁美たちが、興奮気味に詰め寄って来たのだ。
「麦ってよく夏川先輩と話してるけど仲良いの?」「夏川先輩って付き合ってる人いるの?」「夏川先輩かっこいいよね!」
まるで何十羽の鳥の合唱でも聞いているかのように、彼女たちのいつもの声より何オクターブか上ずった声は、微かなめまいを誘発してもおかしくないぐらいだった。

「そりゃ、どうも。」
「あと私、他のクラスの女の子に「夏川先輩って彼女いる?」って聞かれました。」
「ほう。で、お前なんて言ったの?」
「年上の女の人と不倫中だからやめておいたほうがいいよ…って言っときました。」

あの時の、私の返事を聞いた女の子の、口を半開きにしてこの世の終わりとでも言うかのような驚いた顔を思い浮かべて、くつくつと笑う。

「…お前殺すぞ。」
「その子、結構本気にしていましたよ。先輩ってそういうイメージがあるんですね。」

私がそう言うと、先輩は何かを思い出したかのように、あっと短く声をあげる。

「だから俺、こないだ友達に「不倫とかやめとけよ?」って急に言われたのか。」
「きゃ!不潔!」
「あほ!お前が発端だったのか!余計なこと言うな、バカ。」
「ま、それは置いといて。」
「置いとくな。」
「先輩って、結構モテるんですよ。」
「あっそ。興味ないわ。」

私の言葉に、先輩は心底興味ないとでも言うように目を細めた。

「背はそんな高くないけどかっこいいし、背はそんな高くないけど頭はいいし、背はそんな高くないけどクール。」
「悪かったな、チビで。」
「大丈夫です、先輩。チビとは言ってません。」
「3回も背はそんな高くないって言われりゃ、それはチビってことだろ。」
「私も、そんな背高くないんで。」


身長が160cm前後の私より、頭半分ほど高い先輩の身長。
ほんのちょっとだけ見上げれば、不機嫌そうな先輩のこめかみを、汗が流れていくのが見えた。
コンクリートが弾いた太陽の熱が、容赦なく私たちの体に照りつける。
右手に握ったタオルで流れてくる汗を拭う。それでもなお、落ちてくる汗を鬱陶しく思いながら手を下ろすと、先輩の左手とほんの一瞬ぶつかった。

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