第9話

樹の下、少女たち
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2018/06/16 00:19
「ずっと、そうかなって思ってた。」
「私ね、中学の時から先輩とは仲が良かったの。最初は全然話したことなかったんだけど、同じ委員会に入って、よく話すようになったんだ。」

そして、私はゆっくりと思い出した。
受験に有利だから、と担任に懇願され、渋々引き受けた保健委員。初めての委員会の日、ペアの男子と保健室に向かった時のこと。重い引き戸を開けた先に、かっこいいと評判の先輩が座っていた。
色恋沙汰などで盛り上がる女子から少しだけ距離があった私でも、その先輩のことは少なからず知っていた。
だからと言って、別に渋々引き受けた委員会が楽しくなると言うわけでもなかった。

「そこで、保健だよりっていう各クラスに配るプリントを作る担当になったの。5人ぐらいのグループには、先輩がいた。」
「それで仲良くなったんだ。」
「そう。正直言うとね、中学の間は別に好きとか思ったことなかったんだ。ただ、一緒にいると楽しいなってだけだった。」

私の頭の中に、高校の入学式の様子が浮かぶ。
校庭に並んで植えられた桜の樹が満開に咲いていて、春の匂いをたっぷり含んだ暖かい風が吹くたびに、花びらが雪のように美しく舞っていた。
私は、体育館に忘れ物をしたと言う母を、咲き乱れる桜を見上げながら待っていた。

「麦?」

すると、どこからか聞き慣れない低い声で私の名前を呼ばれて、ゆっくりと声のする方に顔を向けた。

「そこに、先輩がいた。一瞬、誰だか分からなかった。1年ぶりに会う先輩は、背が伸びて知らない男の人みたいだった。」

あの時の低い先輩の声も、慣れたように着る制服も、全部が全部見慣れなくて、私は心がぐらりと揺れるのが分かった。
まるで舵の取り方を忘れた船のように、幾度にも形を変える荒波のように、私の心は揺れたのだ。
だけど、それは見慣れない先輩に対してであって、決して、そこに他の感情はないと言い聞かせた。


「好きになったら、だめだと思った。本能的に、傷つくだけだと思った。」
「どうして?」

琴の声はなんとも優しく、まるで柔らかいゼリーを掬うスプーンのように、私の口からぽろぽろと溢れる言葉を掬ってくれる。

「好きだと思わなければ、私は昔と同じように先輩と楽しく一緒にいられる。だけど、そこに恋愛感情が混ざったら、そんな単純な話じゃなくなる。話すだけじゃ物足りなくなるし、不安にだってきっとなる。誰かに嫉妬したり、かっこいい先輩を見て、自分自身に自信がなくなるかもしれない。そんなのは、嫌だ。私は、楽しく先輩と一緒にいられれば、それでいいの。」

そこで言葉を区切って、小さく息を吸う。いっぱい喋って胸は苦しいのに、ずっとつっかえていたものが取れたかのように軽かった。

そっか、と言う琴の声は辛そうで、私は思わず琴の顔を見つめる。
ぼんやりと悲しそうな瞳で自分のつま先を見つめていた琴は、不意に顔を上げると、その瞳に私を映しながら、でも、それが恋だよ、とふにゃりと笑った。
まるでこちらまでつられて笑ってしまいそうな、綿菓子のように柔らかな笑顔だった。


遠くの方で、5限が始まるチャイムが鳴るのが聞こえる。
琴は別にそれを気にする風でもなく、スカートから伸びる細い足を前へ投げ出した。

「次の授業なんだっけ。」

私がそう聞くと、琴が短く、自習、と答えた。
頭のどこかで世界史じゃなかっただろうか、と思っていた私は、思わず聞き返す。

「そうだっけ。」
「自習って思いこめば、それは自習よ。」

わざとらしく仰々しく言う琴に、私は吹き出すように笑った。

「まるで、シュレディンガーの猫だね。」

と言うと、何それ、とでも言うように、琴は不思議そうな顔をした。


私が空を見上げると、飛行機雲がまるで定規で線を引いたかのようにまっすぐと伸びていた。
飛行機雲だ、と呟くと琴も同じように空を見上げる。
飛行機雲の先を行く、白い飛行機が見える。太陽の光に翼が鋭く輝いて、フラッシュを空から焚いたように光った。飛行機雲はしばらく空の中に残ると、やがて跡形もなく青い空の中に溶けていった。
きっと明日も晴れだろう、と思うと、隣で琴が、明日も晴れだね、と呟いた。

どこかの教室から、英語の教科書を音読する声が聞こえる。チョークが黒板にぶつかる音も。
桜の樹が、私たちを隠すように風に揺れた。
まるでここだけ、いつもの日常から切り離されたかのように静かだ。私たちはお互いの顔を見合わせると、いたずらっぽく微笑んだ。
それから琴は、大きく伸びをすると、内緒話をするような小さい声で言った。

「恋だって思うと、世界が変わるよ。麦は、その世界を苦しいものだと思うかもしれないけど、私はそうは思わない。先輩との一つ一つの思い出が、ダイヤモンドよりもキラキラと輝きだすよ。ダイヤモンドだけじゃない、どの宝石よりもずっと。でも、もし苦しくなったら、またこうやって2人で話そう。」

ねっ、と琴は照れ臭そうに笑った。血色のいい琴の頰が、滑らかに小さな丘を作る。その愛らしい顔を眺めながら、琴の溢れんばかりの優しさを、大事に心の中にしまいこんだ。

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