第3話

外科室 3
171
2021/06/13 09:00
 伯爵は温乎おんことして、
貴船伯爵
わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥
伯爵夫人
はい。だれにも聞かすことはなりません
 夫人は決然たるものありき。
貴船伯爵
何も痲酔剤ますいざいいだからって、譫言を謂うという、まったこともなさそうじゃの
伯爵夫人
いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません
貴船伯爵
そんな、また、無理を謂う
伯爵夫人
もう、御免くださいまし
 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横にそむかんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。

 ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻さきにいかにしけん、ひとたびその平生をしっせしが、いまやまた自若となりたり。

 侯爵は渋面造りて、
侯爵
貴船、こりゃなんでもひいを連れて来て、見せることじゃの、なんぼでものかわいさには折れよう
 伯爵は頷きて、
貴船伯爵
これ、あや
腰元
と腰元は振り返る。
貴船伯爵
何を、姫を連れて来い
 夫人はたまらずさえぎりて、
伯爵夫人
綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか
 看護婦は窮したる微笑えみを含みて、
看護婦
お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険けんのんでございます
伯爵夫人
なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ
 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日きょうの切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。

 看護婦はまた謂えり。
看護婦
それは夫人おくさま、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、つめをお取りあそばすとは違いますよ
 夫人はここにおいてぱっちりと眼をひらけり。気もたしかになりけん、声はりんとして、
伯爵夫人
とうを取る先生は、高峰様だろうね!
看護婦
はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません
伯爵夫人
いいよ、痛かあないよ
医学士
夫人ふじん、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉をいで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい
 臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
伯爵夫人
そのことは存じております。でもちっともかまいません
貴船伯爵
あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる
 と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
侯爵
ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう
 伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
医学士
一時ひとときおくれては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑けいべつしておらるるかららちあかん。感情をとやかくいうのは姑息こそくです。看護婦ちょっとお押え申せ
 いとおごそかなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。

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