第5話

外科室 5
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2021/06/27 09:00


 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日あるひ予はかれとともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅つつじの花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池をめぐりて、咲きそろいたるふじを見つ。

 歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。

 一個ひとり洋服の扮装いでたちにて煙突帽をいただきたる蓄髯ちくぜんおとこ前衛して、中に三人の婦人を囲みて、あとよりもまた同一おなじ様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等おんなたちは、一様に深張りの涼傘ひがさを指しかざして、裾捌すそさばきの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
見たか
 高峰はうなずきぬ。
高峰
むむ
 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
 かたわらのベンチに腰懸こしかけたる、商人あきゅうど体の壮者わかものあり。
壮者
吉さん、今日はいいことをしたぜなあ
吉さん
そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ
壮者
なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ
吉さん
一人は丸髷まるまげじゃあないか
壮者
どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい
吉さん
ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田ぶんきんとくるところを、銀杏いちょうと出たなあどういう気だろう
壮者
銀杏、合点がてんがいかぬかい
吉さん
ええ、わりい洒落しゃれ
壮者
なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにというはらだ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ
吉さん
そこでお召し物はなんと踏んだ
壮者
藤色と踏んだよ
吉さん
え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下そこのようでもないじゃないか
壮者
まばゆくってうなだれたね、おのずと天窓あたまが上がらなかった
吉さん
そこで帯から下へ目をつけたろう
壮者
ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい
吉さん
あのまた、歩行あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこうかすみに乗って行くようだっけ。裾捌き、つまはずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上うんじょうになったんだな。どうして下界のやつばらが真似まねようたってできるものか
壮者
ひどくいうな
吉さん
ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓なかを三年が間、金毘羅こんぴら様にったというもんだ。ところが、なんのこたあない。はだ守りを懸けて、夜中に土堤どてを通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦すべったどもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵ごみか、うじうごめいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい

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