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第1話

外科室 1
800
2021/05/30 09:00


 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師えしたるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、それの日東京府下のある病院において、かれとうを下すべき、貴船きふね伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。

 その日午前九時過ぐるころ家をでて病院に腕車わんしゃを飛ばしつ。直ちに外科室のかたおもむくとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目みめよき婦人おんな二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。

 見れば渠らの間には、被布着たる一個いっこ七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織はかま扮装いでたちの人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台すだいの馬車に思い合わせて、ひそかに心にうなずけり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮きづかわしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、せわしげなる小刻みのくつの音、草履ぞうりの響き、一種寂寞せきばくたる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音きょうおんを響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。

 予はしばらくして外科室に入りぬ。

 ときに予と相目して、脣辺しんぺんに微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子いすれり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任をになえる身の、あたかも晩餐ばんさんむしろに望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性にょしょうとてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色おももちにて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。

 室内のこの人々にみまもられ、室外のあのかたがたに憂慮きづかわれて、ちりをも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣びゃくえまといて、死骸しがいのごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、おとがい細りて手足は綾羅りょうらにだも堪えざるべし。くちびるの色少しくせたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、は固く閉ざしたるが、まゆは思いなしかひそみて見られつ。わずかにつかねたる頭髪は、ふさふさと枕まくらに乱れて、台の上にこぼれたり。

 そのかよわげに、かつ気高く、清く、とうとく、うるわしき病者のおもかげを一目見るより、予は慄然りつぜんとして寒さを感じぬ。

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