それは昨日の事。昨日の朝、俺は久しぶりに日本に帰ってきた。通訳の仕事でとあるアーティストに専任で付かせてもらってて、その仕事の満期を迎え、帰国したという訳だ。
数ヶ月に1回は顔出しに帰ってきてはいたが、
こうしてちゃんと日本に戻ってくるのは2年振りだった。
実家が千葉の俺は、成田空港からのタクシーの移動は案外楽で、そこまで時間をかけずに実家に帰ってこれた。
ひとまず実家に戻ってきた俺は、荷物の整理を始めた。リビングに土産も下ろしてきて、リビングの隣の和室に行って、父の仏壇に線香をあげる。昔から肝臓が弱かった父はそのまま病気にかかって2年前に亡くなった。今この家には、母とダックスのココアとチワワのマカロンが住んでいる。妹の真愛は大学生になった時に家を出ている。
その母さんとの会話が弾んでいた。とはいえ、俺は口数は少ない方だから、どちらかと言うと母さんの話に返答している感じだ。
「この先はどうするの?家にしばらくはいるの?」
「そうだなぁ、また部屋借りようとは考えてる。千紗子さんが今勤務してるところが横浜の翻訳センターらしくてね。それなら横浜のオフィスにすぐ出向ける環境にした方がいいなって。」
「基本は在宅でしょう?」
「まぁ、そうだけど、週に1度くらいはすり合わせとかで会社に行くし。」
千紗子さんとは、俺を翻訳や通訳の仕事に導いてくれた恩師。旦那さんがそこの翻訳センターの執行役員で、千紗子さんも役員として立場を置いている。俺はその会社と契約しているから、仕事はそこからもらえる仕組みだ。
「そうなのね。」
「うん。」
すると母さんがこんな事を言い出した。
「良いこと思いついた!」
「…ん?」
「彰輝さー、真愛の家に住めば?」
「…はい?なんでそうなるの?」
俺は首を傾げて鼻で笑う。
「だってあの子横浜に住んでるのよ?大学がそっちの方だからね。学生アパートに住んでるのよ。」
「……はぁ…。」
「それにいい加減、仲直りしてほしいしね。」
「…仲直りって……。俺は至って普通なんだけど。」
「真愛がまだあんたを嫌いになりっぱなしじゃない。これを機になんとかしたら?私結構良いこと言ってると思うけど。」
「……ほぉ…。」
俺は今年で27になる。今でこそ職もあって落ち着いているが、8年前に高校をある事情で退学になってからは、ホストで稼いで酒癖の悪い日々が続いた。そのせいで特に真愛に迷惑をかけた。それ以来真愛は俺を避けるようになった。
「昔は2人ともすごく仲良かったのにー。ほっぺにちゅーとか当時のその頃が1番仲良くて可愛かったなぁ。」
「いつの話してるの。」
「まぁ、原因作ったのは彰輝なんだから、真愛との仲をそろそろ修復してよ。お父さんだって悲しむよ。揃ったのなんて、お父さんの葬式以来じゃん。」
確かにそうだ。2年前の父さんの葬式で真愛に会ったのが最後だ。それ以来は連絡も取ってないし、会ってもいない。
「…それはごめん。俺もずっと海外にいたし。」
「何よ。3ヶ月に1回くらいは顔出しに帰ってきてくれてたじゃない。真愛いない?大丈夫?って真愛の事避けてる感じじゃない。」
「違うよ。真愛が俺に会いたくないだろ。だから聞いてたんだよ。俺は別に、会ったって良いんだ。」
母さんは俺の顔を覗き込んでこう聞いてきた。
「彰輝は真愛とどうしていきたいの?このままの感じでいいの?」
俺は真愛に対しての本心を話してみた。
「いや、このままで良いとは別に思ってないよ。ずっとこのままなのは、何かと将来的に面倒くさそうだし。自分で蒔いた種は自分でいつかは何とかしなきゃと思ってたよ。」
「じゃあ、そのいつかが来たと思って、とにかく、真愛には私から言っておくから、明日からでも真愛の家に行きなさい。」
「はい?急じゃん。それにあいつが許可すると思う?」
「うまいこと言っておくから!」
という事があり、俺は真愛の家にやってきた。結局本人には上手く伝わってなくて、半ば強制的な展開になってしまったけど。
風呂から上がった俺は、髪をドライヤーで乾かして部屋に入った。適当にソファーで寝よう。
俺はこちらを向けて寝ている真愛の顔を眺めては、ベッドの前まで近付いてしゃがんだ。久しぶりの妹だ。少しだけ触りたくなった。俺は真愛が起きない程度に頭を撫でて、寝相が悪くてズレていた真愛の掛け布団を直してやってから、ソファーに寝転んで、着てきた自分の上着を適当にかけて寝た。
この生活、どうなるんだろうか。
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次の日、朝起きると彰輝がソファーで自分の上着をかけて寝ていた。
本当に彰輝がいる…。残念ながらこれは夢じゃなかったようだ。
そうだ、お母さんに電話をしよう。今は8時。お母さんがココア達の餌を上げてる時くらいじゃないかな?
案の定お母さんは起きていて、突然のこの事態に持っていったことを詫びられた。笑っていたけど。
「もー、お母さん、お願いだから今度から大事なことは電話で伝えてよね。」
「ごめんごめん。」
「それに、彰輝と暮らすとかごめんだよ。ストレスたまるよ!」
今だって、彰輝を起こさないように布団の中にもぐって通話をしている。そんな風に気を使ったりしなきゃいけない。それも彰輝に。そんな生活、私には無理だと感じた。するとお母さんがため息をついて言う。
「もー、いつまで彰輝の事避けるつもり?意地ばっかり張ってないで、普通に接すれば良いじゃない。」
「嫌だよ。散々私に酷いことしてきた奴に、なんで私が向き合わないといけないの?」
そんな私の言葉にお母さんはこう返してきた。
「真愛は本当は、お兄ちゃんの事大好きなはずなんだけどなぁ。もう素直になったら?彰輝だって、真愛といつまでもこんな感じなのは辛いと思うな。」
「彰輝はなんとも思ってないよ。」
「なんで分かるの?本人に聞いたの?」
「…いや…。でも彰輝ってそういう奴じゃん。」
「いつの彰輝の話をしてるの?」
「うーん…。」
「確かに真愛は当時の彰輝にたくさん酷いことされて、辛かったよね。嫌いになるのも無理はないと思う。でも、彰輝は変わったよ。」
彰輝は変わった。母の言葉はストンと落ちた。確かにそうだ。それは私にでも分かる。今の彰輝は、私がすごく嫌いになった当時の彰輝ではない事くらい、分かってた。あんなに女にお酒に溺れて暴れていた彰輝が、今は更生してとても落ち着いてしっかり仕事もしてる。彰輝がちゃんと変わった事は分かっていたから、後は私さえ彰輝を認めてあげることが出来れば解決する話なんだ。でも、今の私にはそれが出来ずにいる。
「もっと兄妹でたくさん話して欲しいなぁ。真愛も素直に彰輝に向き合ってみたらいいと思うよ。」
「……彰輝は、彰輝はなんで私に会いに来ると決めたの?渋々来たの?」
「渋々じゃないよ。でも、本人にそういうことは聞きなさい。」
お母さんとの電話が終わって、布団の中でため息をつく私。
彰輝に対して、全然素直になれない。
それどころか、まだ彰輝の事を突き放して、彰輝を懲らしめてやろうという気持ちが出てきてしまう。
最悪だ。私はそうやって彰輝の私に対しての気持ちを確かめようとしてるんだ。どこまで私と向き合う気があるのかを。
素直に本人に聞けば早い話なんだろう。でも、そんな風に素直になる事が簡単に出来るのなら、今こんなに苦労はしてない。
ひとまず布団から出よう。今日は3限から授業がある。そう思って布団から出た時に、彰輝が寝返りを打つ。そして目を開けた。
「…あれ?……何時?」
彰輝は小さな声でそう言う。
「8時過ぎ。」
ぶっきらぼうに返す私。
「8時過ぎか…。」
彰輝はその場でグンと体を伸ばして体を起こした。
「朝飯は…?俺、やろうか?」
「良いよ。」
「そう…。単純に俺が腹減ったからさ。」
目を擦りながらそう言う彰輝の言葉に甘えてみることにした。
「……それならやって。」
「えー…どっちさ…まぁ、良いけど。何時に家出るの?」
「10時半とかかな。」
「分かった。」
彰輝はあくびをしてソファーから降りて台所の方へ向かった。
「和食?洋食?」
「どっちでも。」
「…うーん。…あ…俺、米食いたいな。米ある?」
「あるよ。私、着替えるからご飯作り終わるまで入ってこないでね。」
そう伝えて私は彰輝をキッチンの方へ追い出して、部屋のドアを閉めた。
『乱暴なやつ…。』
それからしばらくして、彰輝即席の朝ご飯が出てきた。ご飯の隣に具沢山の味噌汁に、卵焼きにお豆腐と、きゅうりの酢の物が添えられていた。料理ができたのは昔からだったけど、私自身が料理がそこまで得意ではないから、なんか悔しい。
「出来たぞー。食おうぜ。」
そう言って彰輝がご飯を運んできてくれた。
彰輝と向かい合わせに座って朝食を食べる私たち。会話はほとんど無い。
ただ一言だけ、
「味平気?」
とだけ聞かれた。
「うん。美味しい。」
さすがにそこはちゃんと伝えた。本当に美味しかったから。特に卵焼きはお母さんの味を引き継いだ甘めの卵焼きで、私好みの味だ。
「ほぉ、そっか。」
そう言って白米をおかわりしに炊飯器の前まで移動する彰輝。きっと海外生活が長かったから、お米を食べる機会が少なかったのかもなぁ。
そう言えば…なんで海外行ってたんだっけ?なんの仕事をしてたんだっけ?今は…?私、彰輝の事全然知らないんだ。
彰輝の事を何か聞いてみようと思ったその時、ご飯を装って戻ってきた口数の少ない彰輝に先越された。
「学校こっからどんくらい?」
意外だ。彰輝が学校の事を聞いてくるなんて。
「20分くらい。2駅先」
「へー。良いな、通いやすいのは。何科だっけ。」
「工芸デザイン学科。」
「へー。なんか作るんだ?」
「まぁ、そうだね。」
「へー。例えば?」
彰輝は元々テンションの上がり下がりが無くて静かだから、興味があるんだか無いんだか、分からない感じに聞こえる。でも、とりあえず聞かれているから答えた。
「アクセサリーとか、食器類作ったり。ガラスとか木材使ったりすることもある。」
「ふーん。家には作ったやつとか置いてないの?」
「私が今使ってるこのグラスは授業で作ったやつだよ。」
彰輝は無言で私のグラスに手を伸ばして、その場で持ち上げてジロジロと凝視し始めた。
「ふーん。売りもんじゃ無いのかこれ。お前、昔から物作んの好きだったもんな。」
「……そうだね。」
昔からとかそんなワード使ってきやがって。お兄さんぶっている彰輝のセリフにちょっとだけ腹を立てる。
「大学は楽しい?」
「うん。」
でも、なんだか新鮮だ。彰輝とこんなふうに私の話をするなんて。“兄妹っぽい”事してるなと思った。彰輝が家を出てからは初めてのことかもしれない。
あー。なんだか照れくさくなってきた。
朝ご飯を食べ終わり、箸を置く私。
「彰輝、そろそろ支度進めないと。」
「あぁ、悪い。皿は俺が洗うからそのまま置いときな。」
「分かった。」
照れ臭くなった私は、つい洗面所にまで逃げてきてしまった。歯磨きをしながら考える私。一緒にいるのもまだ気まずいから、それでいて無言の空間だなんてもっとだ。何か話しかける内容は無いかな。するとまた彰輝から言葉が来た。
「そういえば、今日俺も少し用があって出るんだけどさ、家の鍵どうしたらいい?」
「あー。スペアキーあるよ。」
私は部屋のドアのところまで戻る。
「それ、しばらく借りれる?」
「…しばらくって…私は一緒に住んでいいって許可なんてしてないけど。」
「じゃあ、一旦今日。」
と言って彰輝は私に手を差し出してくる。この掌に鍵を乗せろってか。
まぁ、開けっぱなしで出て行かれるより良いか。
「…絶対戻してね。」
私はとある棚の引き出しからスペアキーを取り出して、仕方なく彰輝に渡した。
「うん。ありがとう。」
そこからは結局ほぼ喋らず、彰輝は黙って食器を片し出し、私は私で、何も言わずに家を出発した。
続く
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!