第36話

ハッピーエンドに微笑んで
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2020/09/08 10:52
森の中で眠っていた私は、すぐに崖の上にある食人鬼の住処を目指した。
九井原 皐月
九井原 皐月
はあっ……はあっ……
九井原 皐月
九井原 皐月
こんな時に寝過ごすなんて、絶対あいつの仕業だわ
屋敷に着くと煙と炎に囲まれていたが、私は躊躇せず中に飛び込んだ。

息を止めて燃える屋敷の中を突っ走る。

炎の間を駆け抜けて、私は上を目指した。
九井原 皐月
九井原 皐月
あの馬鹿っ……悟っ
九井原 皐月
九井原 皐月
あいつ、またロクでもないこと考えてるんじゃないでしょうねっ……
火傷の痛みに耐えて、やるべきことのために進み続ける。
彼を止められるのは、私しかいないはずだから。
九井原 皐月
九井原 皐月
今度こそ、止めなきゃ
九井原 皐月
九井原 皐月
あいつはーー大事なことほど嘘が下手だもの
















◆◆◆◆
能美川 明梨
能美川 明梨
これで、幸寛は私のものよ
明梨が告げた言葉に、動揺しないと言ったら嘘になる。

夕莉から佐那城の事情を聞き、女王が人間を食人鬼に変えられることも知った。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
(あの目覚めた時の頭痛と異様な喉の渇きは……前兆だったのか)
夕莉も流石に動揺を隠せず、ぎゅっと唇を噛んでいる。小ぶりの唇から今にも血が出そうだった。
能美川 明梨
能美川 明梨
幸寛が完全に私と同じになったら、まずはキレイにするの。血の力を使って、あなたのことも、過去のことも全て忘れてもらうわ
能美川 明梨
能美川 明梨
そしたら、そこに私との幸せな記憶を詰めるの……
能美川 明梨
能美川 明梨
その後は二人で素敵な時間を過ごすのよ……そうね例えば、森の中に可愛らしい家を作って……
少女がおとぎ話を語るような無邪気な口調で、ゾッとすることを言う彼女に鳥肌が立つ。
じくじくと腹の底に溜まる熱が飢餓感だと言うのなら、彼女の言う完全な状態になるのは時間の問題なのかもしれない。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
(どうする……ここをどうやって切り抜ける)
思いつく方法は一つ、自分が食人鬼になる前に――彼女を、明梨を殺せばいい。
昔の俺だったら、食人鬼というだけで怒りに支配され命を奪う引き金を簡単に引いていたかもしれない。
だが、今の俺は、命を奪う感覚を知っている。

夕莉の首を絞めた時の、命の脈がだんだんと消えていく感覚。光を失って、虚ろになって行く目。
目の前で消えていく命とは反対に、自分の心臓は生を主張するように煩くて、人として取り返しのつかなくなる線引きが見えて恐ろしくなった。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
(だけど――もし、彼女が夕莉を手に掛けようとするなら――)
その時は、覚悟を決めなくてはならない。

俺はそっと、片手を銃のホルダーに伸ばした。
佐那城 悟
佐那城 悟
……ダメだよ。大人しくしていなさい
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
うるさい……今更アンタの言うことなんか
佐那城 悟
佐那城 悟
君を助けたいんだ
佐那城が耳元でそう囁いてきて、俺は一瞬驚く。
佐那城 悟
佐那城 悟
……抑制剤があるんだ。食人鬼の血の活動を抑える。それを使えば、君が食人鬼になるのを止められるかもしれない
彼は俺の手を掴み、自らの白衣のポケットを俺に触らせる。指先でなぞると注射器のような形をした物があった。
佐那城 悟
佐那城 悟
……隙を見て、これを君に打つ。だから、変な真似はよしてくれ
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
……また、嘘じゃないだろうな
佐那城 悟
佐那城 悟
僕の目的、忘れたのかい?
佐那城 悟
佐那城 悟
僕はただ――皐月と結ばれたいだけだよ
その言葉だけは、不思議と嘘ではないとはっきり分かった。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
(それは――きっと彼が、俺と同じだからだ)
個人的に彼を信じたいという思いはあるが――勘よりも頼れるものが俺にはあった。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
……目的のためなら、一度裏切るのも辞さないってことか。食えない奴だ
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
もう『あちら』に付く目的は達成した、って所だろう。そしたら、よりリスクのない方について丁度良いタイミングで裏切るのが定石だろう
佐那城 悟
佐那城 悟
……ああ、もしかしてもう分かってたの? 『裏切りを裏切ること』
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
利のある方に行動する。それがズルい大人のやり方だろ?
佐那城 悟
佐那城 悟
ふーん、流石は探偵さん
彼は少しずつ腕の拘束を弱めていく、それとは反対に俺は苦しんでいる振りをした。
能美川 明梨
能美川 明梨
そして、森の中でハンモックを作って二人でまどろむの……どうかしら? 幸せな物語でしょう
彼女がうっとりとしながら夢物語を語ってる間に、佐那城は俺から片手を放して注射器を持つ。

注射器がもうすぐ俺の首筋に――と思ったその瞬間。
能美川 明梨
能美川 明梨
でも、まだやることがあるわ
注射器は俺に届くことなく、あっけなく落下する――

――佐那城の片腕ごと。
佐那城 悟
佐那城 悟
は……
能美川 明梨
能美川 明梨
まずは1人目
何が起きたのか、分からなかった。

足元にあるのは紛れもなく、切り落とされた佐那城の腕で。

血溜まりが広がり、白衣の袖が血を吸い上げて赤く染まっていった。
佐那城 悟
佐那城 悟
が……あ、あああああっ!! ああああっ、あっ、アアあああああ!!
九井原 夕莉
九井原 夕莉
ひっ……な、なんで……
明梨は薄く微笑んだまま、俺に近づいてきた。母親のような慈悲深い笑みを絶やさないまま、血に濡れた指先をさっと払う。

女神のような顔で、悪魔のような所業。
能美川 明梨
能美川 明梨
夕莉、あなたには沢山苦しんでもらう、そのためには
能美川 明梨
能美川 明梨
あなたの友達や家族、仲間、全部ぜんぶ壊してから、絶望の中で死んでもらうわ
そう言って彼女は、血の海に浸った注射器をパキリと踏み潰した。

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