森の中で眠っていた私は、すぐに崖の上にある食人鬼の住処を目指した。
屋敷に着くと煙と炎に囲まれていたが、私は躊躇せず中に飛び込んだ。
息を止めて燃える屋敷の中を突っ走る。
炎の間を駆け抜けて、私は上を目指した。
火傷の痛みに耐えて、やるべきことのために進み続ける。
彼を止められるのは、私しかいないはずだから。
◆◆◆◆
明梨が告げた言葉に、動揺しないと言ったら嘘になる。
夕莉から佐那城の事情を聞き、女王が人間を食人鬼に変えられることも知った。
夕莉も流石に動揺を隠せず、ぎゅっと唇を噛んでいる。小ぶりの唇から今にも血が出そうだった。
少女がおとぎ話を語るような無邪気な口調で、ゾッとすることを言う彼女に鳥肌が立つ。
じくじくと腹の底に溜まる熱が飢餓感だと言うのなら、彼女の言う完全な状態になるのは時間の問題なのかもしれない。
思いつく方法は一つ、自分が食人鬼になる前に――彼女を、明梨を殺せばいい。
昔の俺だったら、食人鬼というだけで怒りに支配され命を奪う引き金を簡単に引いていたかもしれない。
だが、今の俺は、命を奪う感覚を知っている。
夕莉の首を絞めた時の、命の脈がだんだんと消えていく感覚。光を失って、虚ろになって行く目。
目の前で消えていく命とは反対に、自分の心臓は生を主張するように煩くて、人として取り返しのつかなくなる線引きが見えて恐ろしくなった。
その時は、覚悟を決めなくてはならない。
俺はそっと、片手を銃のホルダーに伸ばした。
佐那城が耳元でそう囁いてきて、俺は一瞬驚く。
彼は俺の手を掴み、自らの白衣のポケットを俺に触らせる。指先でなぞると注射器のような形をした物があった。
その言葉だけは、不思議と嘘ではないとはっきり分かった。
個人的に彼を信じたいという思いはあるが――勘よりも頼れるものが俺にはあった。
彼は少しずつ腕の拘束を弱めていく、それとは反対に俺は苦しんでいる振りをした。
彼女がうっとりとしながら夢物語を語ってる間に、佐那城は俺から片手を放して注射器を持つ。
注射器がもうすぐ俺の首筋に――と思ったその瞬間。
注射器は俺に届くことなく、あっけなく落下する――
――佐那城の片腕ごと。
何が起きたのか、分からなかった。
足元にあるのは紛れもなく、切り落とされた佐那城の腕で。
血溜まりが広がり、白衣の袖が血を吸い上げて赤く染まっていった。
明梨は薄く微笑んだまま、俺に近づいてきた。母親のような慈悲深い笑みを絶やさないまま、血に濡れた指先をさっと払う。
女神のような顔で、悪魔のような所業。
そう言って彼女は、血の海に浸った注射器をパキリと踏み潰した。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!