――翌朝。
目覚めると私の左隣のスペースは既にもぬけの殻だった。
耳を澄ませば階下から物音はしている。
恐らく私より一足先に起床した羊頭が何やら活動しているのだろう。
あの、放っておけば何時間――いや、何年だって寝続けていそうな羊頭が私より早く起きる異常事態。
不穏な空気を感じつつ階下に降りると、キッチンには禍々しいオーラを全力で放つ羊頭がいた。
触れたら火傷、どころの騒ぎではない。
私はそっとその場から離れようと踵を返した。
のに、時既に遅し。
いつになく研ぎ澄まされている羊レーダーが物陰の私をガッチリ補足していたようだ。
「お前が早過ぎるんだよ!」
と言いたいのも山々だが、今の状況はそんな口を叩ける雰囲気ではない。
羊頭のつっけんどんな物言いが、爽やかな早朝の空気を見事にぶち壊している。
昨夜の不機嫌を拗らせ、一晩寝かせた完成形が今のマリアだった。
ガサリ
茫然と立ち尽くす私の鼻先に、羊頭は紙袋を突き出す。
受け取った紙袋はほんのり温かく、ほんのりとバターの香りがしている。
私はテーブルに着くと、紙袋の中を覗いてみた。
中にはこんがりと焼けた丸いパンが五個ほど。
その内のひとつを手に取り、私は一齧りしてみる。
普段食卓に並ぶパンとは別次元の食物に、私は少々の感動を覚えていた。
そんな私の前に、マリアはミルクカップを置く。
羊頭は連絡事項だけを事務的に話すと、私を置いてキッチンを出て行く。
その背中を見送りながら、私はミルクを一気飲みした。
あんなに乱雑に素っ気なく置かれたミルクのくせに、やたら温かく優しい味がしていた。
*****
顔を合すなりの手酷い挨拶に、私は深い溜息を吐く。
騒々しい声を聞きつけ、階段上部から羊頭が顔を覗かせる。
そして一喝。
羊頭に怒鳴られ暫し呆ける悪魔祓い。
我に返ると青ざめた顔で私を見つめた。
何をしたかだって?
そんなこと、私が聞きたいくらいだ。
*****
羊頭の私物が詰まった箱を運び出す為、私と悪魔祓いは細い階段や廊下を何往復もした。
時に個々で、時に二人で協力し、重量級の荷物を運ぶ――それは私にとって経験のしたことない肉体労働だった。
そしてそれは悪魔祓いにとっても同様らしい。
腰を痛めた悪魔祓い。
その嘆きを聞きながら、私は黙々と作業をしていた。
もはや呼称に突っ込む気力も残っていない。
この瞬間、私と悪魔祓いの間に種を超えた友情が芽生えた――気がした。
【教会】【食事当番】
そんなものと同列にされた上、【捨てられる】とは……中々これも心抉られるパワーワードではないか。
私の精神はだいぶナイーブになっていた。
私はぼんやりと遠くを見つめた。
羊頭と別れた後のことなど考えていない――否、考えたくなかった。
またかつての様に夜な夜な暇潰しをして生きるか。
はたまた、一度魔界にでも戻って背の傷が完治するまで隠居するか。
私は脳内でマリアと過ごした直近二日間を振り返る。
悪魔祓いは一瞬ギョッとした表情をし、その後に深々と溜息を吐いて見せた。
悪魔祓いは舌打ちすると、わしわしと赤毛の頭を掻き毟る。
そして心底面倒そうにこう言った。
悪魔祓いは一気に捲し立てると、肩で大きく呼吸を繰り返す。
何故悪魔祓いが悪魔相手にこんなにも真剣に進言をしてくれるのか、理解し難い。
だがそこに悪意や欺瞞も含まれていないことだけはわかる。
私は悪魔祓いに訊ねた。
至極シンプルかつ真っ当な回答に思わず笑いがこみ上げて来る。
そんな私の様子を悪魔祓いはしげしげと見つめていた。
勝算は相変わらずゼロ(というか、現状マイナスに振り切れている)だが、私の心は妙に晴れやかな気分になっていた。
*****
ルシファーは約束通りの時間に貨物用馬車二台を引き連れ、羊頭を迎えに来た。
ルシファーは私の隣に立つ悪魔祓いににこりと笑顔を向けると、直ぐに羊頭へと視線を移す。
興味のないものに対しては、とことん無関心。
実にルシファーらしい対応だ。
悪魔祓いが小さく呟いた。
ルシファーに促され、羊頭は私たちの方へやって来る。
その表情には先程までの不機嫌さは微塵も残っておらず、いつも通りの柔らかな微笑が浮かんでいた。
情けない話だが、この期に及んで私はまだ引き止めのセリフを考えあぐねていた。
思索する私の脇腹を悪魔祓いの肘が鋭く突つく。
不意に襲ったその衝撃に押され、私はついつい見切り発車で口を開いてしまった。
ほら、見たことか。
何の考えもナシに呼び止めたところで、次に続く言葉が出て来ない。
私は昔から咄嗟のアドリブが効かない性質なのだ。
陸に上がった魚類の如く口をパクパクと開ける私。
そしてその様子を黙って見つめる羊頭。
その陳腐な光景を眺めていたルシファーは、四面楚歌の私を嘲笑うかの様に声を上げる。
羊頭はにこりと微笑み、私に背を向ける。
その背中は昨夜、眠りにつくまで見つめ続けた小さな背中。
淋しさと、虚しさ。
私が背を向ける度、羊頭もこんな思いをしてきたのだろうか?
気が付くと、私は羊頭の背を抱きすくめていた。
やっとの思いで口を衝いて出た言葉は、何の装飾もないただの謝罪の言葉。
しかしそれが私の精一杯だった。
腕の中でオロオロと動揺を見せる羊頭。
私は名残惜しい気持ちを堪え、彼女を腕から解放する。
そしてその背中をそっと押した。
羊頭は何とも形容し難い顔で私を振り返り、そしてルシファーの元へと歩き出す。
彼女が歩みを進めるたび、私との距離が一歩、また一歩と離れて行く。
その距離はもう二度と縮まることなくいつしか時の壁となり、永遠に私たちを別つことだろう。
言葉に出来なかった、私の想い。
それは残響の様に何度も何度も私の中で反響する。
――そんな時。
ふと羊頭の歩みが止まった。
次の瞬間。
キョトンとするルシファーを残し、羊頭が私に向かって駆け寄る。
それは映画の様な感動のワンシーン。
とは明らかに違うものだった。
気が付けば私は羊頭に首根っこを掴まれ、罵倒されていた。
*****
羊頭の腕が私を右に左にと揺さぶる。
怒髪天を衝くマリアと、事態を飲み込めず虚ろな私。
見かねた悪魔祓いが間に割って入る。
私を掴んでいた羊頭の手から力が抜け、私は漸く解放される。
青く大きな瞳が私を恨めし気に見つめる。
困惑しつつ悪魔祓いに視線を移すと、彼は顎をクィと持ち上げてジェスチャーを送って来る。
『早くやれよ』そういう意味らしい。
……もうこれ以上の助けは望めなさそうだ。
私は深く深呼吸をし、腹を括った。
そして真っ直ぐ羊頭を見つめ、彼女に言の葉を捧げる。
私は嘘偽りない気持ちを伝え、羊頭に手を差し伸べる。
こんな何の捻りもないシンプルなセリフで、彼女の憤怒が収まるとは思えなかった。
……しかしマリアは破顔し、差し伸べた私の手をすり抜け飛び付いて来る。
やはり人を抱き締めるには真正面からが一番好ましい、と私はしみじみ思う。
マリアは私の懐に顔を埋めると、鼻をすすりながらこう言った。
この先当分の間はこの生活が続くのだと思うと、私の心は憂鬱と歓喜の狭間で揺れ動く。
私は溜息を吐くと、天を仰いだ。
見上げた今日の空はいつになく青く、何処までも澄んでいた。
*****
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。
登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。