第21話

それは突然やって来る
172
2019/10/23 06:09
――翌朝。
目覚めると私の左隣のスペースは既にもぬけの殻だった。
ゼル
ゼル
(……マリア?)
耳を澄ませば階下から物音はしている。
恐らく私より一足先に起床した羊頭が何やら活動しているのだろう。

あの、放っておけば何時間――いや、何年だって寝続けていそうな羊頭が私より早く起きる異常事態。
ゼル
ゼル
(不気味過ぎる)
不穏な空気を感じつつ階下に降りると、キッチンには禍々しいオーラを全力で放つ羊頭がいた。
ゼル
ゼル
(…………ルシファー、マリアの魂は既に汚れ切ってしまったぞ)
触れたら火傷、どころの騒ぎではない。
私はそっとその場から離れようと踵を返した。

のに、時既に遅し。
マリア
マリア
おはようございます、ゼルくん
いつになく研ぎ澄まされている羊レーダーが物陰の私をガッチリ補足していたようだ。
ゼル
ゼル
お、おはよう……
マリア
マリア
私より遅く起きるなんて珍しいですね
ゼル
ゼル
…………
「お前が早過ぎるんだよ!」

と言いたいのも山々だが、今の状況はそんな口を叩ける雰囲気ではない。
羊頭のつっけんどんな物言いが、爽やかな早朝の空気を見事にぶち壊している。

昨夜の不機嫌を拗らせ、一晩寝かせた完成形が今のマリアだった。
ゼル
ゼル
(私が何をしたというのだ……)
ガサリ

茫然と立ち尽くす私の鼻先に、羊頭は紙袋を突き出す。
ゼル
ゼル
マリア
マリア
朝食です。先程街の朝市で買ってきました
受け取った紙袋はほんのり温かく、ほんのりとバターの香りがしている。

私はテーブルに着くと、紙袋の中を覗いてみた。
中にはこんがりと焼けた丸いパンが五個ほど。
その内のひとつを手に取り、私は一齧りしてみる。
ゼル
ゼル
(……このパン、上等なやつだ)
普段食卓に並ぶパンとは別次元の食物に、私は少々の感動を覚えていた。

そんな私の前に、マリアはミルクカップを置く。
マリア
マリア
もう間もなくしたらロッちんがお手伝いにやって来ます。ゼルくんも【元の姿】になってロッちんと荷物の運び出しをやってください
ゼル
ゼル
……え、元の姿で悪魔祓いの前に?
マリア
マリア
もう正体バレているんですから、何の不都合もないですよね?
ゼル
ゼル
そうだが……
マリア
マリア
では私は着替えて最後の荷物をまとめるので……荷運びの方を宜しくお願いします
羊頭は連絡事項だけを事務的に話すと、私を置いてキッチンを出て行く。

その背中を見送りながら、私はミルクを一気飲みした。
あんなに乱雑に素っ気なく置かれたミルクのくせに、やたら温かく優しい味がしていた。


*****
ロルフ
ロルフ
よう、チビゼル!おはようさん!そしてご愁傷様!
アザゼル
アザゼル
…………
顔を合すなりの手酷い挨拶に、私は深い溜息を吐く。
アザゼル
アザゼル
見ての通り、チビではないのだが?
ロルフ
ロルフ
そういやそうだな?どうした、やっと俺と再戦する気になったのか!?
アザゼル
アザゼル
そういうわけではない
ロルフ
ロルフ
じゃあ早速おっ始めようぜ!表に出ろや!!
アザゼル
アザゼル
落ち着け、ニンジン頭……あまり騒ぐと…………
騒々しい声を聞きつけ、階段上部から羊頭が顔を覗かせる。

そして一喝。
マリア
マリア
こら!遊んでいる暇はないんですよ!?さっさと荷物を外に運んでください!
ロルフ
ロルフ
…………
羊頭に怒鳴られ暫し呆ける悪魔祓い。
我に返ると青ざめた顔で私を見つめた。
ロルフ
ロルフ
お、おい、マリアがすげぇ怖いんだけど!?お前、何してくれたんだ!!?
アザゼル
アザゼル
今のはお前が何かしたからマリアが怒ったんだ、私の所為ではない
何をしたかだって?

そんなこと、私が聞きたいくらいだ。
*****


羊頭の私物が詰まった箱を運び出す為、私と悪魔祓いは細い階段や廊下を何往復もした。
時に個々で、時に二人で協力し、重量級の荷物を運ぶ――それは私にとって経験のしたことない肉体労働だった。

そしてそれは悪魔祓いにとっても同様らしい。
ロルフ
ロルフ
うぅ……こんなことなら荷物運びなんて気軽にOKしなけりゃ良かった
腰を痛めた悪魔祓い。
その嘆きを聞きながら、私は黙々と作業をしていた。
ロルフ
ロルフ
なあ、チビゼルよ
アザゼル
アザゼル
なんだ?
もはや呼称に突っ込む気力も残っていない。
ロルフ
ロルフ
今日が終わったら俺は暫く寝込む気がする……お前との決闘は腰が持ち直してからで良いか?
アザゼル
アザゼル
構わない、私も似た様なものだ
ロルフ
ロルフ
……お前、結構良いヤツだな
アザゼル
アザゼル
困った時はお互い様だ
この瞬間、私と悪魔祓いの間に種を超えた友情が芽生えた――気がした。
ロルフ
ロルフ
それにしてもマリアのヤツ、何で急に引っ越しなんて……この教会と悪魔と俺の食事当番を投げ捨てて、何処に行くつもりなんだ!無責任な!!
【教会】【食事当番】
そんなものと同列にされた上、【捨てられる】とは……中々これも心抉られるパワーワードではないか。

私の精神はだいぶナイーブになっていた。
アザゼル
アザゼル
……マリアは街の中央教会に行くそうだ
ロルフ
ロルフ
だいぶ遠いな……で、お前はどうするんだ?まさか付いて行くわけじゃねえだろ?此処に残るのか?
アザゼル
アザゼル
さぁ、どうしたものかな……
私はぼんやりと遠くを見つめた。

羊頭と別れた後のことなど考えていない――否、考えたくなかった。
またかつての様に夜な夜な暇潰しをして生きるか。
はたまた、一度魔界にでも戻って背の傷が完治するまで隠居するか。
ロルフ
ロルフ
……おいチビゼル、確認したいことがあるんだが
アザゼル
アザゼル
何かな
ロルフ
ロルフ
お前、マリアが同居解消を宣言した後ちゃんと引き止めたか?
アザゼル
アザゼル
…………?
私は脳内でマリアと過ごした直近二日間を振り返る。
アザゼル
アザゼル
いや、していないが
ロルフ
ロルフ
悪魔祓いは一瞬ギョッとした表情をし、その後に深々と溜息を吐いて見せた。
ロルフ
ロルフ
思っていた以上のアホで驚いたぜ……
アザゼル
アザゼル
……アホ?私のことか??
ロルフ
ロルフ
そうだよ!
悪魔祓いは舌打ちすると、わしわしと赤毛の頭を掻き毟る。
そして心底面倒そうにこう言った。
ロルフ
ロルフ
いいか、悪魔!これから一度だけ、俺様が貴重なアドバイスをお前にくれてやる!
神妙かつ有難く拝聴しろよ!?
アザゼル
アザゼル
ロルフ
ロルフ
男ならプライドかなぐり捨てても頭を下げにゃならん時がある!お前にとってそれが【今】なんだよ!
アザゼル
アザゼル
ど、どうすればいいんだ……?
ロルフ
ロルフ
マリアに縋れ!懇願しろ!土下座でも嘘泣きでも、どんな手を使っても引き止めろ!以上だ!!!
悪魔祓いは一気に捲し立てると、肩で大きく呼吸を繰り返す。

何故悪魔祓いが悪魔相手にこんなにも真剣に進言をしてくれるのか、理解し難い。
だがそこに悪意や欺瞞も含まれていないことだけはわかる。

私は悪魔祓いに訊ねた。
アザゼル
アザゼル
……引き止めてダメだったら、どうすればいいんだ?
ロルフ
ロルフ
そん時は、潔く諦めろ!
至極シンプルかつ真っ当な回答に思わず笑いがこみ上げて来る。

そんな私の様子を悪魔祓いはしげしげと見つめていた。
ロルフ
ロルフ
爆死する覚悟が出来たか?
アザゼル
アザゼル
ああ、最善は尽くしてみるさ
勝算は相変わらずゼロ(というか、現状マイナスに振り切れている)だが、私の心は妙に晴れやかな気分になっていた。


*****
先生
先生
やあ、お待たせマリア。支度は済んだかい?
ルシファーは約束通りの時間に貨物用馬車二台を引き連れ、羊頭を迎えに来た。
マリア
マリア
アザゼルさんとロッちんが手伝ってくれたので、何とか間に合いました
先生
先生
ロッちん?
マリア
マリア
初対面でしたっけ……では紹介しますね、彼は幼馴染みで悪魔祓いのロルフくんです
ルシファーは私の隣に立つ悪魔祓いににこりと笑顔を向けると、直ぐに羊頭へと視線を移す。

興味のないものに対しては、とことん無関心。
実にルシファーらしい対応だ。
先生
先生
それじゃ、私とマリアだけでも先に出発しようか。荷物は後でゆっくりお友達たちに積み込んでもらって……ね?
ロルフ
ロルフ
げ、マジかよ
悪魔祓いが小さく呟いた。
先生
先生
さ、マリア?お友達に最後の挨拶をしておいで
ルシファーに促され、羊頭は私たちの方へやって来る。

その表情には先程までの不機嫌さは微塵も残っておらず、いつも通りの柔らかな微笑が浮かんでいた。
マリア
マリア
アザゼルさん、ロッちん、今までお世話になりました
アザゼル
アザゼル
…………
情けない話だが、この期に及んで私はまだ引き止めのセリフを考えあぐねていた。
アザゼル
アザゼル
(やはり『私を残して行くな』が無難か?それともシンプルに『行かないでくれ』とか?もしくは『必ずお前を迎えに行くから』……いやいや、大教会に迎えに行くのは自殺行為が過ぎる。もう少し、こう……気の利いた実用的なセリフはないものか)
思索する私の脇腹を悪魔祓いの肘が鋭く突つく。

不意に襲ったその衝撃に押され、私はついつい見切り発車で口を開いてしまった。
アザゼル
アザゼル
マ、マリア!
マリア
マリア
はい?
アザゼル
アザゼル
…………
マリア
マリア
…………?
ほら、見たことか。
何の考えもナシに呼び止めたところで、次に続く言葉が出て来ない。
私は昔から咄嗟のアドリブが効かない性質なのだ。

陸に上がった魚類の如く口をパクパクと開ける私。
そしてその様子を黙って見つめる羊頭。

その陳腐な光景を眺めていたルシファーは、四面楚歌の私を嘲笑うかの様に声を上げる。
先生
先生
マリア、そろそろ出発するよ
マリア
マリア
はあい……アザゼルさん、お元気で
羊頭はにこりと微笑み、私に背を向ける。

その背中は昨夜、眠りにつくまで見つめ続けた小さな背中。
アザゼル
アザゼル
(あぁ……大切な者に背を向けられるのは、こんなにも辛いことなのか)
淋しさと、虚しさ。
私が背を向ける度、羊頭もこんな思いをしてきたのだろうか?

気が付くと、私は羊頭の背を抱きすくめていた。
マリア
マリア
アザゼル
アザゼル
……すまない
やっとの思いで口を衝いて出た言葉は、何の装飾もないただの謝罪の言葉。
しかしそれが私の精一杯だった。
マリア
マリア
ど、どうしたんですか、アザゼルさん!?
腕の中でオロオロと動揺を見せる羊頭。

私は名残惜しい気持ちを堪え、彼女を腕から解放する。
そしてその背中をそっと押した。
アザゼル
アザゼル
さようならだ、マリア
マリア
マリア
アザゼルさん……
羊頭は何とも形容し難い顔で私を振り返り、そしてルシファーの元へと歩き出す。

彼女が歩みを進めるたび、私との距離が一歩、また一歩と離れて行く。
その距離はもう二度と縮まることなくいつしか時の壁となり、永遠に私たちを別つことだろう。
アザゼル
アザゼル
(……行かないでくれ、マリア)
言葉に出来なかった、私の想い。
それは残響の様に何度も何度も私の中で反響する。


――そんな時。
ふと羊頭の歩みが止まった。
先生
先生
マリア、どうしたんだい?
マリア
マリア
……先生、ごめんなさい。私やっぱり我慢が出来ないです
先生
先生
ん?
次の瞬間。
キョトンとするルシファーを残し、羊頭が私に向かって駆け寄る。

それは映画の様な感動のワンシーン。




とは明らかに違うものだった。 
マリア
マリア
このヘタレ悪魔ー!引き止めるタイミング逃してるんじゃないですよ!!
アザゼル
アザゼル
!??
気が付けば私は羊頭に首根っこを掴まれ、罵倒されていた。


*****
マリア
マリア
確かに私も一度は本気で教会を出て行く覚悟をしましたよ!?でもフツー一回くらいは引き止めますよね!?引き止めないわけがない!
なーぜーなーら、アザゼルさんは私のことが好きだからです!愛しちゃってるんです!
それなのにヘソ曲げて『どうぞご自由に』みたいな態度!キー、ムカつく!ってなるのは当然です!
ツンデレですか!?ツンデレを自称するのなら、それ相応のデレは用意しているんでしょうね!?当然ありますよね!!?
アザゼル
アザゼル
(……何故コイツはこんなにも怒っているのだろうか)
羊頭の腕が私を右に左にと揺さぶる。
アザゼル
アザゼル
(そしてこんなにも早口で喋れるとは、侮っていた)
マリア
マリア
私の話、聞いてますか!!?
アザゼル
アザゼル
……聞いて、る
怒髪天を衝くマリアと、事態を飲み込めず虚ろな私。

見かねた悪魔祓いが間に割って入る。
ロルフ
ロルフ
おい、そこら辺にしとけよ、マリア。その悪魔死んじまうぞ?
マリア
マリア
ロッちんは黙っていてください!これは私とアザゼルさんの問題です!
ロルフ
ロルフ
腰痛めてまでお前のワガママに付き合ったんだぞ、外野扱いすんな!
大体、教会出てくって言い出したのはお前だろ!『引き止めてくれない!』ってキレる権利あるのか!?
まさか悪魔の気を引く為だけにこんな小芝居打ったのか?ならば流石に怒るぞ??
マリア
マリア
……そんな嘘は吐かないですよ
私を掴んでいた羊頭の手から力が抜け、私は漸く解放される。
マリア
マリア
……先生から『アザゼルさんの怪我の回復が遅いのは教会ここで生活している所為だろう』と聞きました
ロルフ
ロルフ
ほう
マリア
マリア
私はアザゼルさんに一日でも早く元気になって欲しいんです。でも私と居る限り……教会で生活している限り、それがどんどん遅くなる。
だけれどアザゼルを教会から追い出すことも出来ません
ロルフ
ロルフ
だから自分もろとも教会から退去させようとした、ってことか?
マリア
マリア
……でもやはりこの教会やアザゼルさんと離れ難くて。だから一度でも『行くな』って言って貰えたら、直ぐに引っ越しは止めるつもりだったんです。
なのにこの朴念仁ときたら……
青く大きな瞳が私を恨めし気に見つめる。
アザゼル
アザゼル
(…………これはもしや、二度目の引き止めチャンスなのか?)
困惑しつつ悪魔祓いに視線を移すと、彼は顎をクィと持ち上げてジェスチャーを送って来る。
『早くやれよ』そういう意味らしい。
……もうこれ以上の助けは望めなさそうだ。

私は深く深呼吸をし、腹を括った。
そして真っ直ぐ羊頭を見つめ、彼女に言の葉を捧げる。
アザゼル
アザゼル
行かないでくれ、マリア
マリア
マリア
アザゼル
アザゼル
……帰って来い
私は嘘偽りない気持ちを伝え、羊頭に手を差し伸べる。

こんな何の捻りもないシンプルなセリフで、彼女の憤怒が収まるとは思えなかった。



……しかしマリア・・・は破顔し、差し伸べた私の手をすり抜け飛び付いて来る。
マリア
マリア
ただいま、アザゼルさん!
アザゼル
アザゼル
……おかえり
やはり人を抱き締めるには真正面からが一番好ましい、と私はしみじみ思う。

マリアは私の懐に顔を埋めると、鼻をすすりながらこう言った。
マリア
マリア
今日も明日も明後日も……まだまだずっとお世話を焼きますからね!
アザゼル
アザゼル
お手柔らかに頼むよ、マリア
マリア
マリア
家族に遠慮はしませんよ!
アザゼル
アザゼル
(……ここまで来てもまだ【家族扱い】か)
この先当分の間はこの生活が続くのだと思うと、私の心は憂鬱と歓喜の狭間で揺れ動く。

私は溜息を吐くと、天を仰いだ。
見上げた今日の空はいつになく青く、何処までも澄んでいた。


*****
先生
先生
……どうしてアザゼルの味方をしちゃったのかな、ロッちんは
ロルフ
ロルフ
その呼び方は止めろ、気色悪ぃ
先生
先生
とりあえずキミが肩入れしたということで、勝負はアンフェア。今回は【引き分け】で良いかな?
ロルフ
ロルフ
俺に聞くなよ、知らんわ
先生
先生
相変わらず私に優しくないな、キミは
ロルフ
ロルフ
悪魔に優しい悪魔祓いなんていねぇよ……それより早く消えとけ
先生
先生
ではまた後程に……我が主よ・・・・

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