羊頭との痴話喧嘩から、暫し。
私は教会近くの木陰で頭を抱えていた。
思い出しただけでも気がおかしくなりそうな、羊頭のあの発言。
嫉妬されることこそあれ、する立場になることなどあり得ない。
あの瞬間は、そう思った。
しかしこうして独り、これまでの諸々を反芻すると様々なことに気付かされる。
悪魔祓いと出会ったあの晩から、【偶然】と呼ぶにはあまりに出来過ぎた一連の事象に私は不信感を抱いていた。
その不信を解消しようと躍起になっていたのは、警戒心の強い私の性分であり――心の奥底で【マリアを疑いたくない】と願っていたからだろう。
私を嵌める為の、何者かの悪意ある企みであっても構わない。
しかしその企みに羊頭が関わっているとは思いたくなかったのだ。
私を匿うのも、私の世話を焼くのも、私に向ける笑顔も。
裏のないマリア自身の行動だったと信じたかった。
万が一にもし裏があったとしたなら、この先何千年と私は人間不信に陥ることだろう……。
故に、今思い返せば。
羊頭の口から【先生】という単語が出るたび、私の心はにわかに騒めいた。
そして羊頭の友人らから【マリアと先生のエピソード】を聞いているうち、その騒めきは不快感へと変化した。
それは不信感とは別物の、紛れもない嫉妬だったようだ。
私は何度目かの溜息を吐くと、夕闇に染まりつつある天を仰いだ。
羊頭の友人たちは先生の存在を【マリアが作った架空の人物】と思っている。
しかしその様に判断する所以は実に曖昧な憶測からだ。
二人には一切の悪意はなく、ただ純粋に友人である羊頭を心配している様に見える。
が、何故そこまで【先生】という存在を否定したがるのか、私には理解出来なかった。
知識のひけらかし?
自己顕示欲からの虚言?
その様な低俗な意識があの羊頭にあるとは思えない。
確かに羊頭は神職にありながら、呼吸をする様に嘘を吐く時がある。
しかしその大半が細々とした些細なもの。
ここぞという場面の大きな嘘だって、それ相応の理由があってこその嘘なのだ。
少なくとも私はその【先生】とやらが実在している人物だと、確信を持った。
気が付けば、見上げた空はすっかり群青に染まっている。
そこで私はようやく重い腰を上げた。
*****
教会に着くと、私は真っ直ぐ裏口へ回る。
羊頭も私も悪魔祓いも、日頃の出入りは此方を利用している。
理由は単純、此方の方が居住スペースに近いからだ。
小さくオンボロなドアを開けると、キッチンの方から微かな食物の匂いと談笑が聞こえる。
臨機応変、私は即座に【ゼル】の姿に化けると何食わぬ顔でキッチンへと向かった。
私を見るなり羊頭は猛烈な勢いで駆け寄って来る。
そして思い切りの力で小さな私を抱き締めた。
羊頭の温かな体温と匂いに包まれ、ほんの少し夢見心地になった。
――その時だ。
羊頭の肩越しの、悪夢の様な光景が私の目に留まる。
嵐の様な私の心中も知らず、羊頭は目尻に浮かぶ涙を拭いながら微笑んだ。
【とっておきのお客様】
その人物はダイニングテーブルに頬杖をつき、笑顔で此方を眺めている。
そして私と目が合うと、空いた方の手の平をひらひらと振ってみせた。
羊頭が絶対の信頼を置く男。
羊頭以外にはゴースト扱いの男。
私の嫉妬心を掻き立てる男。
向こうは初対面を装っているが、私はその顔をよく知っていた。
かつてはこの世の栄光を一身に受け【明けの明星】【光をもたらす者】と称されていた男。
名を【ルシファー】という。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!