由緒正しい、歴史ある、古式ゆかしい男子寮の廊下に、夏さんの低い声が静かに響く。
廊下には赤いじゅうたんが敷きつめられ、個室の扉もマホガニーの重厚なつくり。
見上げれば、シャンデリアが午後の陽ざしにきらきらと輝いている。
人気がないと、まるで古城か一流ホテルを歩いてるみたいだ。
口を開けてあっちこっち見回してると、横を歩く夏さんが立ち止まった。
見下ろしてきたその切れ長の瞳が、私のマヌケ面にとまって、すぐ逸らされる。
彼の心の声が聞こえるようだ。
──この女、大丈夫かよ。って。
ホントに場違いすぎて全然大丈夫じゃない。
今さらながら、空前絶後の超ラッキーと思ってた、特待生推薦合格。あれも実は、すでに春臣サンが私に目をつけてて、裏で手を回してたんじゃ……って思えてくる。
私はごくりとノドを鳴らす。
でも、でもだよ。冷静に考えてみれば、悪い話じゃない。
三ヶ月どうにかやり過ごせば、借金を一括返済してくれるんだ。
見知らぬ土地で苦労してるだろう両親の顔を思い浮かべ、奥歯をグッとかみしめた。
やろう。とにかく、やるだけやってみよう。
そうだ。もし失敗してバレちゃったって、困るのはあの能天気無責任お坊ちゃまで、私はそしらぬ顔で女子寮に移動すればいいだけだし。うんうん。
中学時代、内職で学校以外は家から一歩も出られなかった暗黒の日々。それを思えば、こんなホテルみたいな寮での生活、天国に決まってる。
……よし、やる気が出てきたぞ!
夏さんは一番奥の、角部屋の扉を押し開いた。
思わずワッと声がもれる。
現れたのは──十畳ほどの広い洋間。
部屋に入ってまず目が行くのは、どっしり重たい造りの二段ベッドだ。ハシゴじゃなくて、ちゃんと小さな階段が据えつけられてるやつ。なんてカワイイんだろう。
板敷きの床には織りカーペットが敷かれ、壁ぎわには、こじゃれたアンティーク調の勉強机が二つ並んでる。アンティーク調っていうか、創立当初からずっとココで使われてきた、本物のアンティークなんだろう。それに応接セットに、小さなキッチンまでついてる!
家族三人で住んでたアパートよりずっと広いしゴージャスだ。
夏さんは、君のデスクは右側、洗濯機は地下でうんぬん、必要事項を簡潔明瞭に教えてくれる。
ムダなくキビキビ話す人だ。将来立派に政界財界で働けそうだな。きっと彼もどこぞの財閥のご子息で、高等な教育を受けてきたんだろう。
へ? と、それまで彼の動きを他人ごとのように眺めてた私は、唐突に我に返った。
ふり向いた彼の前髪が揺れて、きりりとした涼しげな瞳が、まっすぐに私を見る。
淡い鳶色の瞳の、意志の強い光。
ぼそ、と答えたあと、「三ヶ月の男装生活」がじわじわリアルになってきた。
そ、そうだよね。私、このさわやかイケメンさまと、このベッドを一緒に使うんだ。
三ヶ月まるまる同じ部屋で寝起きすることになるんだから当たり前だけど、なんか無性に恥ずかしいようないたたまれないような気分になってきた。
いやいや、彼みたいな天上の方は、私のようなジミを超えた空気系の女子になんてなんの興味もないだろうし、そもそも私は「男子高校生」になるわけだから、うん。ヘンに考えるのはよそう。そういうの、自意識カジョーっていうんだ。
ぐるぐる考えてる私に、夏さんは肩をすくめた。
ため息まじりの夏さんは、デスクの椅子を引いて腰かけた。長い脚が組んでも余ってる。
床に落ちた蚊の恨み節みたいにつぶやく私に、彼は苦笑する。
なんて的確な表現だ。この人も悪逆非道の仲間かと思ったけど、実は「バカ殿」の被害者なのかもしれない。そっけない印象なのは、キレイな面立ちだからそう見えるだけで。
キレイな顔の眉間に、シワが寄った。
この苦々しい色、やっぱりバカ殿被害者同盟だ。思わず握手しようと腕を伸ばすと──、
彼の表情に、あきれ、プラス、憐れみ?
は?
まさか! 凍りつく私に、彼は大きな息をついて背を向ける。
私が中途半端に伸ばした手は、宙にやるせなく浮いたまま。
絶句する私の頭に、バサッと分厚い書類が降ってきた。
言い終えた夏さんはデスクに譜面らしきモノを広げ、なにやら書きこみ始める。
もう声をかけてくれるなと言わんばかり、ご丁寧にイヤホンまで装着済みだ。
こ、この人、協力してくれる気なんてさっぱりないなっ!?
私はがくりとカーペットにヒザをつく。
絶望しつつ拾った書類は、三センチ超えの厚みだ。
よしっ、やる気が!……………………出てこない。
出てこないけど、ここで私が終わったら双葉家も終わってしまう。
私は両手でカーペットの毛足をにぎりしめ、キッと顔を上げた。
負けるものかっ! 一家離散の双葉家の希望の光は、すぐそこに、ちょっと、ホントにちらっと、見えてるかもしれないんだから……っ!
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!