第11話

死後の恋 五 1
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2022/08/13 11:00
 森の入口の柔らかい芝草の上に私が匍い上った時には、もうすっかり日が暮れて、大空が星だらけになっておりました。泥まみれになった袖口そでぐちや、ビショビショに濡れた膝頭ひざがしらや、お尻のあたりからは、冷気がゾクゾクとしみ渡って来て、鼻汁と涙が止め度なく出て、どうかするとくしゃみが飛び出しそうになるのです。それを我慢しいしい草の上に身を伏せながら、耳と眼をジッと澄まして動静ようすをうかがいますと、この森は内部なかの方までかなり大きな樹が立ち並んでいるらしく、星明りに向うの方が透いて見えるようです。しかも、いくら眼をみはり、耳を澄しても人間の声は愚か、鳥の羽ばたき一ツ、木の葉のれ合う音すらきこえぬ静けさなのです。
 人間の心というものは不思議なものですね。こうしてこの森の中には敵も味方も居ない……全くの空虚であることが次第にわかって来ると、何がなしにホッとすると同時に、私の平生へいぜいの気弱さが一時に復活して来ました。こんな気味のわるい、妖怪おばけでも出て来そうな森の中へ、たった一人で、どうして来たのかしらん……と気が付くと、思わずゾッとして首をちぢめました。軍人らしくもない性格でありながら軍人になって、こんな原ッパのまん中にるとやって来て、たった一人で傷つきたおれている自分の運命までもが、今更にシミジミとふり返られて、恐ろしくて堪らなくなりましたので、すぐにも森を出ようとしましたが、又思い返してジッと森の中のやみを凝視しました。
 私がリヤトニコフの宝石の事を思い出したのは、実にその時でした。リヤトニコフは……否、私たちの一隊は、もしかするとこの森の中で殺されているかも知れぬ……と気が付いたのもそれと殆んど同時でした。
 ……早くから私たちの旅行を発見していた赤軍は、一人も撃ち洩らさない計略を立てて、あの森に先廻りをしていた。そうして私たちをあの森に追い込むべく、不意に横合いから機関銃の射撃をしたものと考えれば、今までの不思議がスッカリ解決される。しかも、もしそうすれば私たちの一隊は、この森の中で待ち伏せしていた赤軍のために全滅させられている筈で、リヤトニコフも無論助かっている筈はない。赤軍はそのあとで、私が気絶しているうちに線路へ出て引き上げたのであろう……と、そう考えているうちに私の眼の前の闇の中へ、あのリヤトニコフの宝石の幻影がズラリと美しく輝やきあらわれました。
 私は今一度、念のために誓います。私は決して作り飾りを申しませぬ。この時の私はもうスッカリ慾望の奴隷になってしまっていたのです。あの素晴らしい宝石の数十粒がもしかすると自分のものになるかも知れぬ、という世にも浅ましい望み一つのために、苦痛と疲労とでヘトヘトになっている身体からだを草の中から引き起して、インキ壺の底のように青黒い眼の前のやみの中にソロソロと這い込みはじめたのです。……戦場泥棒……そうです。この時の私の心理状態を、あの人非人でしかあり得ない戦場泥棒の根性と同じものに見られても、私は一言の不服も申し立て得ないでしょう。
 それからすこし森の奥の方へ進みりますと、芝草が無くなって、枯れ葉と、枯れ枝ばかりの平地になりました。それにつれて身体からだ中の毛穴からみ入るような冷たさ、気味わるさが一層深まって来るようで、その枯れ葉や枯れ枝が、私のてのひらや膝の下で砕ける、ごく小さな物音まで、一ツ一ツに私の神経をヒヤヒヤさせるのでした。

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