第20話

甘くて苦い
2,387
2019/02/12 10:37
甘い味が唇を濡らす。
ずっと求めていた甘い香り――
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
ゆう、り……?
上嶋くんが、私を呼ぶ声。
ずっと呼んでほしかった私の名前。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あ……
ポケットに感じる重み。
君にもらった大切な、私の好物。
目の前の首筋から真っ赤な血が、ぷくりと溢れる。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あっ、ああ、あっ……
私は何を――
突き飛ばすようにして私は彼から離れる。
さあっと胸の底が冷えるような後悔と罪悪感、絶望が私に押し寄せる。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あ……ごめんなさい! 私、本当は……
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
っ! 危ない!
ドッッッッッッ
上嶋くんが私に抱きついてきて、地面に転がる。
さっきいた場所に衝撃音が降ってきて鉄片やガラスが舞い散った。
三好 修吾
三好 修吾
ねえ、僕のこと無視しないでよね。寂しいじゃないか
パラパラと鈍い光が降る中で、三好先輩は突き刺さった鉄パイプを二つ抜いた。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
馬鹿! 腹減ってるならレモン牛乳でも大人しく飲んでろ!
九井原 夕莉
九井原 夕莉
えっ?   あ、はい……!
上嶋くんは私を抱きしめながら叱る。
私がつけた彼の首の傷は浅く、血は出ているが滲む程度だ。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(よ、よかった……大した怪我じゃないみたい。でも……)
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
お前は逃げろ……俺がケリをつける
立ち上がった上嶋くんは私を守るように背にして、折りたたみナイフを取り出す。
柄の下を引っ張って、かしゃしゃっと、あっという間にナイフが槍のようになる。
三好 修吾
三好 修吾
邪魔をするなぁぁぁっ!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
ぐぅっ……!
カキン!  カキン!




上嶋くんは二本の鉄パイプを振り回す三好先輩の攻撃を槍で受け流した。
手数が多い三好先輩の隙を伺っているが、なかなか猛勢はやまない。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(このままじゃ……上嶋くんが!)
下がってろと言われても、人間と食人鬼じゃ敵うはずがない。
三好 修吾
三好 修吾
俺は喰う……そして完全な食人鬼になるんだ! そうすれば、もう俺は……
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
ごちゃごちゃうるさい、なあっ!
上嶋くんが鉄パイプを受け止めたが、そのまま三好先輩に力で押され、ずずっ……と足が後ろに下がる。



私は走った――はやく、上嶋くんを助けなきゃ。
三好 修吾
三好 修吾
お前ごとき人間に、俺の邪魔をされてたまるかっ! ここで死ねっ!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
うッ…………
ばきりと柄が折れて、無防備な上嶋くんに三好先輩は鉄パイプを振りかぶる――

















三好 修吾
三好 修吾
がっっっ…………
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(間にあった……!)
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
お前……
二人が戦っている間に、ごみの山の間を走り抜けて三好先輩の背後に私は回っていた。
そして彼が油断した隙に拾った鉄板で力一杯彼の頭を叩いたのだ。
三好 修吾
三好 修吾
く、そ…………眼の前が……暗い、いや……だ
三好 修吾
三好 修吾
ひと…………りは……………
頭を抱えて、三好先輩は呻きながらとさりと倒れ込む。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
はあっ……ごめん、上嶋くん
私も力が抜けて、錆びた鉄板が手から滑り落ちる。
そして私も荒い呼吸をしたままその場に尻もちをついてしまった。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
……まったく、無茶ばっかりしやがって
上嶋くんは深い溜め息をついて私の前に立った。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
ごめん、なさい。本当にごめんなさい
安堵と恐怖と、一瞬でも上嶋くんを喰べようとした罪悪感、そんないっぱいいっぱいな感情で震えがこみ上げてくる。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(ああ、なんか。ぐちゃぐちゃだ)
瞳がじんわりと痛くなって、もう溢れそう――
















ぐに。

口元の皮膚が横にぐにっと引っ張られる感覚。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
ひょへ…………?
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
お~、変な顔
九井原 夕莉
九井原 夕莉
……うへひまくん、なにしへるの
上嶋くんは私の頬をぐいぐい引っ張っていた。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
へえ~以外と伸びるな。むにむにむに
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あにょ…………
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
上にどこまで伸びるんだ? ふふ面白い
九井原 夕莉
九井原 夕莉
……ちょっと!!
私の顔で遊んでいる上嶋くんの手を掴んで押しのけた。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
私の顔で急に遊び出さないでよ!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
いや、なんかつい。いつも変な顔してるからいいだろ
九井原 夕莉
九井原 夕莉
してない!!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
ははっ
上嶋くんがいたずらっ子みたいに笑う。

私はこういう上嶋くんの顔に弱いんだ。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
謝ってばっかりで、お前らしくなかったから。そっちの方がだいぶ夕莉らしい
上嶋くんなりの気遣いのつもりだったらしい。
もう、いつもわかりづらいんだからこいつは。


してやったりみたいな顔で笑う上嶋くんに少しムカついたから。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
……ゆ、幸寛
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
……………………は
彼の、名前を呼んだ。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
ゆ、き、ひ、ろ
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
…………………………………………は?
九井原 夕莉
九井原 夕莉
幸寛、君の名前でしょ。私のことさんざん呼び捨てしてたんだから、おあいこ
ぽかんと豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をする彼。


呼ぶのは正直恥ずかしい。でもここで呼ばなきゃ、もう呼べない気がした。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
あー……あのな、九井原
九井原 夕莉
九井原 夕莉
ゆ、う、り。
ってさっきまで呼んでたでしょ
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
それはその、勢いっていうか……お前の名字は言いにくいから……
九井原 夕莉
九井原 夕莉
幸寛って、私はこれから呼ぶから
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
ダメだ、上嶋に戻せ
九井原 夕莉
九井原 夕莉
いやです~幸寛が最初に始めたことだから
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
いやダメだ。俺も戻すからお前も戻せって
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あ~お腹空いた。レモン牛乳飲もうっと
私は慌てる彼の言葉に聞く耳を持たずレモン牛乳を飲み始める。

うん、この苦くてほのかな甘みがやっぱり好きだ。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
困るんだ……名前だと、なんか
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(なんかって?)
彼は口元を片手で隠し、目を逸した。
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
なんか……すごく、胸がむず痒くて
小さく絞り出された声。彼の瞳は水面のように光が揺れている。
今まで見たことがない、恥ずかしそうな顔で瞼を伏せていた。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
(あ…………)
口が開いてしまい、くわえていたストローがへにょっと向きを変える。



どっっっっと体温が爆発するみたいに上がって、頭が沸騰した。
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あー!あー! やっぱやめようか名前呼び! 上嶋くん!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
そ、そうだな九井原! なんか悪かった
九井原 夕莉
九井原 夕莉
全然! 気にしなくていいよ上嶋くん!
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
あ……でもなんかちょっと、しゅんってするような
九井原 夕莉
九井原 夕莉
あーーーー! っていうか美空! 美空が無事か確認しないと
上嶋 幸寛
上嶋 幸寛
そうだな夕……じゃなくて九井原!
あわあわと名前を訂正して、私達は美空の元に向かおうとする。

























――ぴくりと、三好先輩の指先が動いたような気がした。

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