第3話

芋粥 3
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2021/09/25 23:00
 或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処どこかから迷つて来た、尨犬むくいぬの首へ繩をつけて、打つたりたたいたりしてゐるのであつた。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、
五位
もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう
と声をかけた。すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、さげすむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。云はば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。
子供
いらぬ世話はやかれたうもない。
その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、かう云つた。
子供
何ぢや、この鼻赤めが。
五位はこのことばが自分の顔を打つたやうに感じた。が、それは?悪@態をつ_かれて、腹が立つたからでは毛頭ない。云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。後では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」をしたり、舌を出したりしてゐる。勿論彼はそんな事を知らない。知つてゐたにしても、それが、この意気地のない五位にとつて、何であらう。……
 では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。五位は五六年前から芋粥いもがゆと云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛あまづらの汁で煮た、粥の事を云ふのである。当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗ばんじようの君の食膳にさへ、上せられた。従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさへ、飲めるのは僅にのどうるほすに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支さしつかへない程であつた。――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚をわらふ者は、畢竟ひつきやう、人生に対する路傍の人に過ぎない。
 しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。

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