第6話

芋粥 6
42
2021/10/16 23:00
 利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。赤鼻の五位は、それをにうけた。久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづがゆい。芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。かう思つて、あらかじめ利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬にまたがつた。所が、くつわを並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。
五位
粟田口では、ござらぬのう。
藤原利仁
いかにも、もそつと、あなたでな。
 利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさるからすが見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色もほのかに青く煙つてゐる。晴れながら、とげとげしいはじの梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
五位
では、山科やましな辺ででもござるかな。
藤原利仁
山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。
 成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、彼是かれこれひる少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。二人はその僧を訪ねて、午餐ひるげの馳走になつた。それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。
五位
まだ、さきでござるのう。
 利仁は微笑した。悪戯いたづらをして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。鼻の先へよせたしわと、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さうして、とうとう、かう云つた。
藤原利仁
実はな、敦賀つるがまで、お連れ申さうと思うたのぢや。
笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的皪てきれきとして、午後の日を受けた近江あふみの湖が光つてゐる。
 五位は、狼狽らうばいした。
五位
敦賀と申すと、あの越前ゑちぜんの敦賀でござるかな。あの越前の――
 利仁が、敦賀の人、藤原有仁ありひと女婿ぢよせいになつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人ともびとをつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来ゆききの旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふうはささへ、諸方にある。――五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
五位
それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。
 五位は、殆どを掻かないばかりになつて、つぶやいた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
藤原利仁
利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。

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