利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。赤鼻の五位は、それを真にうけた。久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづ痒い。芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。かう思つて、予め利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬に跨つた。所が、轡を並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。
利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさる鴉が見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色も仄に青く煙つてゐる。晴れながら、とげとげしい櫨の梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、彼是、午少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。二人はその僧を訪ねて、午餐の馳走になつた。それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。
利仁は微笑した。悪戯をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。鼻の先へよせた皺と、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さうして、とうとう、かう云つた。
笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的皪として、午後の日を受けた近江の湖が光つてゐる。
五位は、狼狽した。
利仁が、敦賀の人、藤原有仁の女婿になつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来の旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふ噂さへ、諸方にある。――五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。