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第11話

芋粥 11
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2021/11/20 23:00
藤原有仁
芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。
 舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。中にはどれも芋粥が、あふれんばかりにはいつてゐる。五位は眼をつぶつて、唯でさへ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器かはらけにすくつて、いやいやながら飲み干した。
藤原利仁
父も、さう申すぢやて。ひらに、遠慮は御無用ぢや。
 利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。弱つたのは五位である。遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸ひやうがない。
五位
何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。
 五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。
藤原有仁
これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。
 童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器かはらけに汲まうとする。五位は、両手を蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。
五位
いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。
 もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、
藤原利仁
あれを御覧ごらうじろ
と云はなかつたなら、有仁はなほ、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。檜皮葺ひはだぶきの軒には、丁度、朝日がさしてゐる。さうして、そのまばゆい光に、光沢つやのいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。見るとそれは一昨日をととひ、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。
藤原利仁
狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。
 利仁の命令は、言下ごんかに行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、あづかつたのである。
 五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童きやうわらべにさへ
京童
何ぢや。この鼻赤めが
と、罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫さしぬきをつけて、飼主のない尨犬むくいぬのやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位は慌てて、鼻をおさへると同時にしろがねの提に向つて大きなくさめをした。
(大正五年八月)

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