第8話

芋粥 8
38
2021/10/30 23:00
五位
広量くわうりやうの御使でござるのう。
 五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使いしする野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――阿諛あゆは、恐らく、かう云ふ時に、もつとも自然に生れて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間ほうかんのやうな何物かを見出しても、それだけでみだりにこの男の人格を、疑ふ可きではない。
 抛り出された狐は、の斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
 狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
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 一行は、予定通り翌日の巳時みのときばかりに、高島の辺へ来た。此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋わらやが、まばらにちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣漪さざなみをよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。
藤原利仁
あれを御覧ごらうじろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。
 見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩かちのもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞そんきよして、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
五位
やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。
藤原利仁
生得しやうとく変化へんげある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。
 五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等らうどうたちの待つてゐる所へ来た。
藤原利仁
大儀ぢや。
と、利仁が声をかける。蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になつた。
白髪の郎等
夜前、稀有けうな事が、ございましてな。
 二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色ひはだいろの水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。
藤原利仁
何ぢや。
利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝ささえ破籠わりごを、五位にも勧めながら、鷹揚おうやうに問ひかけた。
白髪の郎等
さればでございまする。夜前、戌時いぬのときばかりに、奥方がにはかに、人心地ひとごこちをお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝ことづてせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有おつしやるのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意ぎよい遊ばすのでございまする。

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