第9話

芋粥 9
51
2021/11/06 23:00
五位
それは、又、稀有けうな事でござるのう。
五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌あひづちを打つた。
白髪の郎等
それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。
五位
して、それから、如何いかがした。
白髪の郎等
それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。
藤原利仁
如何でござるな。
郎等の話を聞きをはると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。
藤原利仁
利仁には、けものも使はれ申すわ。
五位
何とも驚き入る外は、ござらぬのう。
五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、しづくになつて、くつついてゐる。
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 その日の夜の事である。五位は、利仁のやかた一間ひとまに、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、あかしてゐた。すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。殊に、雀色時すずめいろどきもやの中を、やつと、この館へ辿たどりついて、長櫃ながびつに起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂ひたたれの下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
 直垂の下に利仁が貸してくれた、練色ねりいろきぬ綿厚わたあつなのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。枕元のしとみ一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。万事が、京都の自分の曹司ざうしにゐた時と比べれば、雲泥の相違である。が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
 すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何かれてゐるらしい。そのからびた声が、霜に響くせゐか、凛々りんりんとしてこがらしのやうに、一語づつ五位の骨に、応へるやうな気さへする。
白髪の郎等
この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時うのときまでに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各おのおの、一筋づつ、持つて参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにぢや。

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