時計は夕方四時半を指していました。塾のある新御茶ノ水駅から、私の家のある新宿駅まで行くことになりました。彼は少し目を伏せたまま、窓の外のビル群をぼんやりと見ていました。
電車の窓から斜陽が差し込んで、彼の瞳を黄金色に照らしていました。
「皿、家族に贈りました」
「……何か変わった? 」
「いえ、何も」
私は穏やかに笑いながらそう伝えました。彼は目を少し開いて、戸惑いを隠さず、ただ、私の言葉を待ちました。
「たぶん、家族に贈り物をする事が自分の中でのゴールでした。それで良かったなって、思います」
太陽に照らされた彼の瞳が少し揺れて、まるで黄水晶を溶かしたように見えました。私の不十分な言葉を、きっと彼はわかっていました。
彼は盗作に復讐をしませんでした。それはきっと、彼は絵を描く事だけが目的だからでした。『帰雁』がどういう絵なのか何も語らなかったのも、きっと、それを誰かに知ってもらう必要がなかったからでした。
先生が、『鑑賞者は制作者の思いを知る必要がない』と言ったのも、それと同じでした。だから先生は『回雁』を飾り、私は『帰雁』に慟哭を見出しました。
「それは、少しだけわかるよ」
彼は微かに笑って、そう溢しました。
「……展示、見に行きました」
「知ってる」
まさか見られていたとは思わず、今度は私が驚かされる番でした。彼は苦笑しながら、「絵の説明とかを訊かれるの嫌だから、在廊してる体で、藝大の建築の友達とか真琴とかと別の教室で雑談してた」と言いました。
有栖川さんの名前をここで聞く事にもさらに驚きましたが、彼らの対等な話し方と、有栖川さんが理工学部三年な事を考えると、察せられるものがありました。
「凄かったです」
彼の家で『帰雁』を見た時と同じように、簡単な言葉で感想を伝えました。あの時とは違って、私は絵の感想がそれで良い事を知っていました。
私の陳腐な言葉の感想に、彼は少し考えてから、小さく溢しました。
「ちゃんと見てくれて、ありがとう」
ちゃんと、が何を意味するのかわからず、厳密には、その「ちゃんと」が最悪の可能性を含んでいる可能性に思い至り、私は黙ったまま彼の方を向きました。あれは明確に盗作への彼の答えで、つまり、それは。
彼は少し迷う素振りを見せてから、少しの愉悦と自嘲を交えた顔でこちらを向きました。
「全部見て回っててたらわかると思うんだけど、SNSにあげてた絵、一年くらいずっと盗作されてたの。俺は公的に小鳥遊を名乗れないから、完全に私用の、ただの備忘録として使ってたあのアカウントね。そしたらそれが見つかって、後はあの展示の通り。……ただ、『帰雁』だけは本当に許せなかったから、最後のつもりで答えを返した。結局それは伝わらなかったから、もうあの顔は見たくないと思って大学辞めてきた」
ここへきて、少しずつ点が繋がってきたような気がしました。彼の家庭環境こそまだ全ては理解できませんでしたが、一つずつ解けていくものがありました。
退学届が、『帰雁』が、彼の展示の『梅雨、未完成。』とその詩が。
彼が一年間黙り続けたのは、きっと、同じ藝大で絵を描く一人のアーティストとしての純粋な何かを信じ続けたからなのだと思いました。それが例え、自分の絵を否定するものだったとしても。
彼の世界は本当に美しい色と言葉で出来ていて、それは、『それでも私は、未完の雨に打たれることを選びたい。』という言葉と、似ていました。
彼は「芸術って広義で見ると、全部何かの盗作だからさ、やっぱり難しいんだよね。だとしても、あれはどうかと思うけど」と世間話をするかのように笑いました。
どうしてそんなにも綺麗に笑えるのか、私にはわかりませんでした。
私には、彼の背負った荷物を受け取ることは出来ませんでしたし、彼もそれを望んでいませんでした。
ただ、なんでもない事のように彼が溢した話を、私の世界の見方を通して、私は受け取りました。
西陽が美しいと思いました。暑くて、眩しくて、そして、太陽は赤色ではないのだと気付きました。
「太陽、赤じゃなくて、金色なんですね」
脈絡のない、しかし彼にはきっと伝わる一言でした。彼はこちらを向いて、肩をすくめて笑いました。金色に照らされた瞳の中で、瑠璃の輝きを見つけた気がしました。
電車を降りて五分ほど歩き、私の住むアパートの玄関で、冷蔵庫に眠っていたアルコールを彼に渡しました。「変な飲み合わせしないでくださいね」と言うと、彼は決まりが悪そうに目を逸らしました。その様子がなんだかおかしくて、私は苦笑を返しました。彼は毒気を抜かれたように瞳を閉じて、穏やかに笑いました。
私の家族はもう戻らなくて、彼の背負う荷物はどうしようもない重さをしていて、全て救われる事はきっとないけれど、私も彼も確かにここで生きていて、だから、一つずつ拾っていけば良いと思いました。
すきなもの、きらいなもの、まだわからないもの。
太陽はゆっくりと沈んでいきました。空は、藤と瑠璃を混ぜて溶かしたような色をしていました。
「物理学の講義、また来ますか? 」
「どうだろ、もう少し色々落ち着いてからかな」
「たまに連絡しても迷惑じゃないですか? 」
「忙しかったら取れないけど、迷惑じゃないよ」
「……ちゃんと、泣いてくださいね」
「何を? 」
「全部です。あなたが言ったんですよ、相手がどうであれ、悲しい時はちゃんと悲しんで泣いていいって」
彼はそれには返答を返さず、少し逡巡してから、何かを観念したように笑い、「わかった、また話すよ」と言いました。
その「また」が、いつを指しているのかはわかりませんでした。また明日、と気楽に声をかける時のようにも、全てと決別し、どこか遠くへ行ってしまう最後の別れで言う、せめてもの嘘のようにも思いました。しかし、それは私にはわからなくて良いのだと思いました。
彼は既に絵画という方法を知っていて、でも、それが溢れた時、彼が決断する時の方法を一つ増やせたのなら、それだけで良いと思いました。その決断の一つに、「また話す」があるのなら、仮にその「また」が来なくても、きっと。
「じゃあね」と呟いて、彼は玄関の扉の前でひらひらと手を振り、背を向けました。私が「はい」と小さく返答し、軽く頭を下げると、彼は言い残した事を思い出したようで、こちらを振り返ました。
ふわりと髪の毛が舞って、西陽に照らされ、宝石のように輝きました。ただの学生アパートの玄関が、まるで映画のワンシーンのようでした。
彼は目を細めて、どこか泣き出しそうな顔で、しかし満足そうに笑いました。
全てを伝えない、一見意味の通らない言葉でしたが、それは明確に、「ちゃんと泣いてください」への答えでした。
「知ってしまった。伝えたい人に、意味が届く、温かさを」












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。