第13話

陽光、金魚の筆跡。
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2026/07/21 14:00 更新
 奥の方から帰ってきた彼が、染料を机に置き、私に筆を渡しました。「ありがとね〜」と呑気な様子の先生は、私に向き直り、「じゃあやってみましょう〜」と笑うのでした。
 少々強引な気もしましたが、先生は楽しそうにこちらを見ているので、きっと先生の中での美術は、技術が無くても楽しんで良いものなのだろうと思いました。

 藤田さんは油画をやってみるらしく、イーゼルを持ってきて、キャンバスと筆を構えていました。
 私は、先生が満面の笑みでこちらを見つめる中、何となく目の前の染料に筆を入れてみました。これが焼いたら何色になるかも聞かず、ただ目の前にあると言う理由で。先生は何も言いませんでしたし、きっとそれで良いのだろうと思いました。
 白い平皿に何を描こうか迷い、「贈ってみたらどう?」という彼の言葉を思い出し、私は筆を走らせました。
 絵を描いた記憶など殆どありませんが、水族館の記憶はありありと蘇りました。弱々しい筆致ではありましたが、クラゲとエイを描けたらいいな、と思いながら、私は思うままに手を動かしました。
 筆の扱いや、絵の根本的な描き方もわからない私では、誰がみても素人の作品にしかなりませんでしたが、自分の意識の外に、「楽しい」という感情がそこにはありました。

「もう一枚描いてみてもいいですか? 」

 おずおずと私が問いかけると、先生は心から楽しそうに「勿論よ」と笑うのでした。
 そこで初めて、「染料は焼くと色が変わるんです、葵月さんが使っているものと、日向さんの使っているものは実は少し違うもので、陶芸はその辺も面白いところなのよ」と聞かされるのでした。

「目の前にあるのは 呉須ごすという染料です。扱いやすくて、青がメジャーかしらね。緑や茶色、黒なんかもあります。葵月さんのは和絵具。簡単に言うと水彩画みたいなものです、水じゃなくて、少し特別な長石釉ちょうせきゆうというもので溶かすんですよ」

「これは何色になるんですか? 」

 私はさっき使ったものとは違う染料を指差しました。先生は笑みを深めて、「それは茶呉須です、落ち着いた雰囲気で、これもまた綺麗なのよね」と言いました。
 私は新しい筆を借り、茶呉須を使ってみることにしました。しかし、私は結局何を描こうかと迷って、染料の含まれた筆が行く当てを失ったまま空中で留まっていました。

「何でもない緩やかな線も美しくなるわよ」

 顔を上げると、立ち上がった先生がこちらを見ていました。返答をしようと思ったものの、「きょうちゃーん」と呼ぶ小学生の方を軽く見て、先生は「はいはい」と穏やかにそちらに向かうのでした。「あら、これ素敵ね」と小学生と会話する声が聞こえる中、私は思い切ってモチーフのない線を引きました。

 感覚で引いた曲線、次は直線。楕円、リサージュ曲線、対数螺旋。私は、建築学のための数学や物理学を、知らないうちに芸術というフィルターを通して見ていました。私はそれの意味するものを上手くわかっていませんでしたが、こちらの机に戻ってきていた先生は、何も言わずに笑みを浮かべているのでした。

 数十分ほどかけ、三枚の皿に絵付けをした私は、「これでお願いします」と皿を先生に渡しました。
 先生は「あら、なかなか素敵だわ」と言いながら、「あちらの棚に置いてきてくれる? 」と焼く前の皿や器が置いてある棚を指差すのでした。
 
 棚に皿を入れ、私が元の席に戻ると、何やら三人は談笑していて、私はそれにそっと聞き耳を立てていました。こちらの様子に気付いた先生は、「まだ描きなよ〜」と私に平皿を渡すのでした。

「展示とか制作はまあ良いんですけど、在廊で何話したらいいのかがずっとわかってないです」

「在廊って何なんですか? 」

「展示の時にね、制作者がそこに居ることよ。展示見に行くとね、作者さんとちょっとお話出来たりするのよ」

「へえ! 制作者がどんな時にどう思って描いたのかって知れると面白いですもんね! 藝大の展示、見に行ってみたいな」

 どうやら藝大の展示会の話をしているようでした。藤田さんの「制作者の思いを知りたい」という感想を聞きながら、先生が二階で私に言った、「制作者の思いは知らなくてもよい」という言葉を思い出していました。

「人によります。見に来てくれた人と好きなポイントの差を話したりしたい人の所に行くと、彼ら際限なく喋るので面白いと思います」

 彼は筆から目線を動かさないまま、そう返しました。
 それは、彼自身は作品について話したいとは思っていないということを暗に示していました。

「私、葵月さんの展示見に行ったけど、あなた本当に何も話さないわよね、びっくりしたわよ」

「まあ、言う事も特に無いので」

「藝大って定期的に展示するんですか? 次やる時には行ってみたいです」

「良いわね。私も見に行きたいわ、ね、日向さん」

 「あなたも興味あるでしょう?」と急に話を振られ、私は顔を上げました。彼の絵を見せて欲しいと頼んだ事から全ては始まっていたので、このまま素直に頷くのは少し躊躇いがありました。しかし、内心彼の他の作品も実物を見てみたいと思いました。

「油画は六月かな、卒制があるから今年はそれが最後。その他の学科は訊かないとわからないです」

 戸惑いのままの私を横目に、完成、と小さく呟いた彼は筆を置きました。ちらりとその手元を見ると、赤色の濃淡だけで表現された、水を泳ぐ金魚の皿がそこにありました。
 私がそれに見惚れていると、彼は席を立ち、それを棚の方に持っていきました。赤い金魚が少し名残惜しくて、私は彼の後ろ姿を追いかけるのでした。

「あら、もうこんな時間じゃない」

 先生が少し驚いたような声を出し、私はそちらを向きました。時計は十二時を指していて、丁度お昼時でした。「サンドイッチでも持ってくるわ、ちょっと待ってて」と楽しそうな笑い声を残し、先生は工房から出ていくのでした。私と藤田さんは顔を見合わせ、少し戸惑いを示してから、向こうから戻ってくる彼に視線を向けました。

「あれ、先生は? 」

「お昼だからと言って、出ていきました」

「ちょっと時間かけすぎたかな、悪いことをした。片付け終わらせておくよ、筆ちょうだい」

 こちらに帰ってきた彼は私にそう言い、釉薬と筆を持ってシンクの方へ行きました。慌てて、手伝います、と私は彼に声をかけました。

「こっちは俺が使った筆だから水では洗えない。呉須使った筆は冷水で普通に洗って大丈夫だから、そっちだけお願い。終わったらそこに乾かしておいて」

 的確な指示のもと、私は渡された筆を水で洗うことにしました。陶器に触ったり、絵を描いたり、と全てが新鮮で、筆を洗う作業ですら、どこか楽しいと思っている自分がいました。

 芸術への最初の一歩を教えてくれた彼に感謝すると共に、それらを極めた人たちは何を作るのだろう、と藝大の六月の展示への興味が強くなりました。しかし、机に置いてあった退学届に、彼が「朝日奈葵月」と名前を書いていたという事実が、私の脳裏に焼き付いて離れませんでした。





 先生の厚意で昼食を頂いた後、一通り片付けを手伝い、私たちは工房を後にすることにしました。

「来てくれてありがとうね〜、展示見に行くの楽しみだわ。お皿は一週間後に焼き上がるからそれ以降ならいつでも取りに来ていいからね。用事とかで来れそうになかったら、私が展示の時に持っていくわ」

 先生が玄関の前でそう笑い、私たちはお礼をしてから、東京の人混みの中に戻るのでした。
 彼に誘われるがままに来た絵付け体験は、私の家族の現状を変えるものではありませんでしたが、その代わり、何か大切な事を知る事ができたように思いました。
 
「小鳥遊さん」

 電車の中で、軽く目を閉じていた彼は、ゆっくりとその瞼を開き、私の方を向きました。
 名前を呼んだものの、結局何から伝えるか迷い、口を開けては閉じる私を見て、彼はくつくつと笑って、一つだけ問いました。

「葵月でいいよ。……絵はどうだった? まだわからない? 」

 色というものを通した世界の見方を、私は少しだけ知る事が出来たでしょうか。
 絵は好きだったか、嫌いだったか、まだわからなかったか。作品の優劣ではなく、好きかどうかで判断して良いというのなら。

「……描くのは、まだ上手くは言えないけれど、楽しかったです。絵を見るのも、なんとなく、好きです」

 五月の気温は心地よく、窓から入り込む光が彼の髪を淡く照らしていました。
 
「それは良かった」

 彼は目を閉じながら上品に笑いました。少し低い、柔らかな声色でした。

 

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