第12話

残花、親愛と過去。
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2026/07/21 13:00 更新
「芸術はお好きなの? 」

 工房は思っているよりも広く、陶芸をメインにしているであろう一階と、絵画を扱っている二階がありました。二階には誰もおらず、誰かの描きかけのキャンバスが置いてありました。木炭と鉛筆特有の香りが穏やかに漂っていて、これが彼の見てきた一部なんだろうなと思うと、少し嬉しくなるのでした。

「芸術はめっぽうわからないんですが、彼の絵は凄いと思いました」

 私はそう正直に答えました。芸術の事は本当にわかりませんでした。しかし、『帰雁』が私の心を揺らしたのも事実でした。

「葵月さんの? ふふ、素敵な事ね」

 先生は二階の端にある物置部屋のようなところに入り、何枚かの絵を私に見せてくれました。

「これ、彼が高校生の時の絵よ。あ、そこの壁に飾っているのも。私、あれが本当に好きで飾らせて貰ってるのよ、あれは油画ね」

 見せて貰った数枚の絵はデッサンでした。そのどれもが写真のように精巧で、これを黒だけで描けるのか、と驚愕しました。そして、壁に飾ってある絵を見た時、私は息が一瞬止まりました。

 それは、『帰雁』でした。いえ、正しくは同じ構図の、しかし、そこに描かれた右手は花を持っていました。白い花でした。それを、掬い上げるように持った右手が、額縁の中にありました。
 初めて私が『帰雁』を見た時、きっとこの右手は花を持っていたはずだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と感じた事を思い出しました。それは正しかったのだ、と思いました。


「……この花の名前は、この絵の題は、あるんですか? 」

「あら、日向さんもこれがお好き? トルコキキョウよ、この花。花言葉は『永遠の愛、思いやり』。彼、なかなか粋な事するのよ。……題はね、『回雁』よ。渡り鳥である雁が、遠くからまた戻ってくるという意味の言葉ね」

 穏やかな寂しさを感じる絵でした。実物の『帰雁』を見た時の、慟哭や激情を押し殺したようにすら見える何かは、『回雁』にはありませんでした。それは、どこまでも続く、静かな哀しみでした。
 
「絵はね、作者がどう思って描こうが、それを鑑賞者は汲み取らなくて良いのよ」

 壁の絵の前で黙ったまま動かない私を見て、先生はそう言いました。それはあまりにも乾いていて、私は、それの意味を上手く咀嚼できませんでした。

「ふふ、いずれわかるわ。仮に作者が私怨で描いた絵だとしても、好きであれば好きでいいし、良い作品は良い作品として見て良いのよ」

 さ、と先生は軽く手を叩いて、「陶芸も見に行きましょうか! 私の得意分野ですよ」といじらしそうに笑いました。

 二階から降りて、工房から少し離れたところにある小屋に入りました。「これは電子窯なんです、危ないから気をつけて」と先生が奥の黒い大きな箱のようなものを指さしました。
 奥の棚には焼き上がったお皿がありますよ、と完成された器も見せてくれました。色とりどりの鮮やかな模様が描かれた皿もあれば、青一色のもの、壺のような器そのものの形が特殊なもの、と大小様々でした。
 
「全て筆で塗ってるんですか? 」

「いいえ、実は、物によって様々なんです。陶芸作品の多くは釉薬という特殊な液体の染料をかけて色をつけるのがメジャーです。でも、葵月さんに任せたような絵付けであれば、筆で描く事が多いかしらね」

 青い色の花瓶のような壺の前で立ち止まる私を見て、先生は笑いました。

「青色、綺麗でしょう? 」

 私も青が好きなんですよ、と並んである作品を見ながら、先生は一つずつ器を見ていくのでした。
 先生は、「好き」や「綺麗」などの簡単な表現をよく使いました。それは、芸術に疎い私のための説明なのだろうと思っていましたが、「この器はね」と楽しそうに語る顔は「好き」という言葉の意味そのものであり、私が思う以上に芸術の鑑賞はシンプルなのかもしれないと思いました。
 それは、彼が私に言った「これは好き、これは好きじゃない、これはまだわからない、と一つずつ拾っていく」という言葉と似ているような気がしました。

 一通り作品を見てから、じゃあ戻りましょうか、と促されるまま私たちは工房に足を運びました。
 工房の中に入ると、彼は制服を着た女子高生と何かを話していて、時折困ったように目を細めるのでした。
 彼はそのまま、視線を少し動かしてこちらを認識し、何かを伝えたそうな瞳をこちらに向けました。先生がそれを見て苦笑し、行きましょうか、と歩き出しました。

「進捗はどう〜? 」

 彼は私たちがテーブルに戻ってくるのを確認し、少し安堵したように瞳を伏せ、一度筆を置きました。彼の手元には赤い金魚が泳いでおり、白い皿に赤い色が映えていました。青も緑も使われていないにも関わらず、金魚が生きて泳いでいるように見え、彼の手腕に私は目を見開くのでした。

「あら、良いじゃない。遠慮しないでもっと好きにやったって構わないわよ」

 先生は彼の手元の皿を見て朗らかに笑い、椅子に腰掛けました。彼は「ありがとうございます、あと長石釉ちょうせきゆうが無くなっていて」と言いました。
 先生は、「あら、勝手に持っていって良かったのよ」と目を細めました。その朗らかさを見て、上品な年の取り方とはこれの事なのだろう、とぼんやりと思いました。

「さ、日向さんは何をしたい? 」

 先生の瞳がこちらを向いていて、私はなんと返答すれば良いかわからず、悩む素振りを見せるばかりでした。彼の前の席に座った女子高生がこちらをじっと見つめていて、尚更私はきまり悪い思いをするのでした。

「皿、作って贈ってみたら? 何か変わるかもよ」

 黙ったままの私を見兼ねたのか、彼は視線を上げないままそう言い、「長石釉の他に必要なものあります? 」と席を立ちました。
 「贈ってみたら」と言う言葉は、私と彼だけに伝わる暗号のようで、その相手こそ明言しなかったものの、私が彼の意図を理解するのは簡単でした。何度目かわからない感謝をしながら、私は「そうします」と伝えました。

「いいわね〜、青春って感じ」と先生がのんびりと言い、先生と女子高生、そして私の雑談が始まりました。
 大人しそうな女子高生は藤田文乃さんという名前で、彼女も美大を目指しているそうでした。彼女が彼を見る視線が何かを物語っていました。

「デザイン科に行きたいと思っていたんですけど、油画も良いなって。もう今年から高三なので迷ってます」

「油画ね〜、カッコいいわよね。学科によって入試形態が大きく変わるから早めに決められたら良いんだけれどね。葵月さんが話してくれたら良いんだけど、いかんせん彼は自分の事を話さない人だから仕方ないわよね。私も陶芸だし、油画入試はあまりわからないのよ」

「過去作品、どれもとっても凄くて、びっくりしたんです」

「油画の入試、本当に難しいって聞くから困るわよね、でもまあ、ゆっくり考えるのが良いわよ。して、日向さんの理工学部は何を学んでいるのかしら? 」

 藤田さんと先生の美大入試の会話を呑気に聞いていたら、急に話を振られ、私は少しの動揺と共に返答しました。

「学科にもよりますが、学部二年なので、少しずつ物理などの専門科目とかですかね? とにかく計算が多いです」

「あら、それは凄いわね、私なんて九九しかもう覚えてないわ」

 うふふ、と先生は謙遜の入った冗談を言い、私たちも釣られて笑いました。暖かな木漏れ日が机を照らしていて、これを言い表す言葉は、「綺麗」で良いのだろうと思いました。



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