第17話

四季、雁声と手紙。
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2026/09/08 14:04 更新
 九月になりました。彼と最後に出会ってからおおよそ二ヶ月が経っていました。
 彼とは相変わらず出会いませんでした。大学も夏休み期間に入っていたので、私はひたすらバイトと勉強に明け暮れる日々でした。連絡しても迷惑ではないと言われてはいましたが、私は、彼の「また話す」をただ待つことを選びました。
 
 九月中旬の土曜日の事でした。昼過ぎにスマホの電話が鳴りました。
 知らない番号だったので、恐る恐る出ました。画面の向こうからは、見知った声が「今時間大丈夫?」と響きました。端末を変えたのか、今までと違う番号ではありましたが、それは彼の声でした。「はい」と返答し、私は彼の次の言葉を待ちました。

 ちゃんと伝えようと思ったことがあるんだけど、と彼は電話の向こうで喉を鳴らしました。

 来年の二月からロンドンの大学院に行くこと。既に合格を貰っていること。留学ではないから暫くは日本に帰らないこと。それを自分で決めたこと。決めて良いと、思えたこと。

「……どこから話したら良いのかわかんないな。俺、ずっと、本当に何も決められなかったの。好きな食べ物とかですら、人前で答えられなくて。だから段々人と話さなくなってさ。話さなかったのか、話せなかったのかはわからないけれど。見かねた祖父が俺に絵を教えてくれて、それなら決められた。色も、構図も、全部。俺にとっての絵は対話だったし、楽しかった。ちゃんと好きなものを、言えたから」

 塾の面談や、駅で少女に向けた彼の無表情は、きっと彼が冷酷な面を持ち合わせているからではなかったのだと思いました。それはもっと深い、彼が明かさなかった傷の形でした。

 語られる内容とは対照的に、画面越しの声は穏やかで、どこか嬉しそうでもありました。きっと彼は、雨の受け取り方に、絵画以外の方法がある事を知ったのだろうと思いました。

「高校の時に親が離婚した。父は別居する事になって、親権は母にあった。祖父は父方の祖父なんだけど、祖父は俺に藝大という選択肢がある事を教えてくれたり、とにかく親の離婚の後も凄く気に入られてた。なんでかわからないけど物凄くお金持ちで、今の家も祖父が俺のために買ってくれた。でも両親は妹のことも大切にしたかっただろうし、そういうアンバランスさみたいなのがずっと前から軋轢になってたんだろうなって思う。その分両親から俺は見切られてたから、全部俺が悪かったとは思わないけど」

「なんかさ、父方の祖父が物凄くお金持ちだと、こう、母よりも力を持っちゃうんだよね」

「離婚してから、母が鬱か何かで家事を放棄したから、家と画材だけ与えられて高校の途中から俺はここで一人暮らし。両親は二人とも俺が藝大に行く事を良く思ってなかったから、元々この一年が終わったら俺は家に戻って、普通に働けと言われてた。理由はわからなかった。とにかく、俺の人生は四年までだった」

 彼がSNSに上げていた絵を備忘録だと言っていた事の意味を、漸く理解しました。彼が人に言えなかった、それでも忘れたくなかった言葉が、きっとそこにありました。
 想像以上に重い話でしたが、彼はそれを私にわかってほしいわけではないのだろうと思いました。彼は既にそれを絵画として筆に乗せていて、だから、私はただ、数式と実験で出来た世界の見方を通して、事実を受け取りました。

「三年になった時から退学の事をずっと考えてたけど、退学届は出せなかった。同じ藝大の入試を潜り抜けて、絵が好きで、芸術家の道を歩むと決めた事を信じたかった。本当はわかってた。伝わらないって。でも、俺の人生を終わらせないために、あの盗作に、芸術家としての信念が欲しかった」

 彼には休学という選択がありませんでした。そして、自分の絵に対する冒涜と、許された四年という時間を天秤にかけて、盗作を黙認する事を選びました。
 それを彼は保身だと言いました。きっと、それは嘘ではなくて、でも、優しさという名前でもあるのだろうと思いました。

「良いこともあったよ。やっぱり描くのが怖くて、藝大の中で絵を描けなくなったから、真琴に誘われて物理とか数学とか受けに行った。面白かった。一年とか二年の時はずっと教室で絵を描いてたから、誘われたとはいえ、自分で決めて、全然美術と関係ない授業を受ける自分が好きだった。好きになれた」

 彼は時間をかけて「選ぶ」を形にしようとしていたのだと思いました。そこで、気付きました。
 『帰雁』の右手は。きっとそこに花を持っていたはずであろう、それの意味は、きっと。

「後は知ってると思う。『帰雁』を盗られたのだけは、ちょっと黙認出来なかった。それから、選び方を知った。目の前の予定を一つずつ埋めたらいいって、日向が俺に言ったから。言い方は悪いけど、使えるものを使ってみたんだよね。祖父に海外の芸術大学に行きたいと言った。無理だったら諦めようと思ってたんだけど、反対されなかった」

「びっくりした。ただでさえ、妹の事って実質俺に任されてたから、こんな我儘なんて許されないと思ってた。藝大は辞めました、来年の二月入学でロンドンに行きたいですって言って、でも、これ、許されたんだよ、俺」

 彼はおかしそうに笑いました。笑い声以上に、そこにはきっと様々な感情が滲んでいて、でも、彼は誰も責めませんでした。それが許されるのであれば、藝大を休学する事だって、他の選択だって、もしかしたら取れていたかもしれないとわかっていながら、彼はただ、「人生って、思ってるより、どうにでもなった」と笑うのでした。

「だから、言おうと思った」

 彼は穏やかに、詩を詠うように、そう言いました。
 あまりにも突然の告白でしたが、それは、彼が「話してもいい」と思ったタイミングで、彼が決めた事でした。
 
「……絵、見せてくださいね」

 私は彼の言葉を受け取り、咀嚼してから、私の答えを返しました。彼が私にそうしたように、私は私の伝えたい事を、声にしました。
 彼は電話の向こうで笑いました。鈴の鳴るような声でした。その瞳にはきっと、青が滲んでいて、それが太陽に照らされた時、黄金に輝く事を、私はもう知っていました。


 彼は、美しいひとでした。言葉と色で出来た世界を通して、絵画と共に生きていました。



「描くよ、ずっと」

 

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