いつの間に声に漏れてしまっていたのか、心配げに未央がそう言った。
ああ、そうだ。今から未央と下校するところなんだっけ。
何でもないよ、と笑ってみせると未央は苦笑した。
今日は土曜日。そして明日、日曜は彼方くんと私の実家に行くことになっている。……早くも憂鬱だ。
慌ててそう誤魔化すと、未央は何とも言えないような固い表情で小さく頷いた。そして私には聞き取れないような小さな声でぽつりと何かを呟く。
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友達が来る、としか伝えていなかった為か玄関先で驚く母に、礼儀正しくお辞儀をする彼方くん。何だか、意外だった。彼方くんでも一応ちゃんとした挨拶は出来るんだ、なんて思ってしまった私が馬鹿なんだろうか? まあ一宮家の御曹司となればその程度の礼儀作法ぐらいできて当たり前か。正直、人と話すのが苦手なんていうからもう少しガタガタと震える姿が見てみたかったなんて欲もあるけれど…。
そんなことを考えたのも束の間、両親に聞こえないように小声で耳打ちしてくる彼方くんに、「これだからヘタレ御曹司は」と心の中でひっそり毒づいておいた。
これまた同じ反応の父に苦笑しつつ、私達はようやく弟妹達の待つリビングに向かった。ちなみにその際もすかさず彼方くんは高そうな菓子折りをお父さんに渡していた。…私も後でお菓子が食べたいって言ったらまたお店ごと買われてしまうのだろうか。
…どうして彼氏って言われて、否定しないの!?
顔を真っ赤にした私の言葉なんて聞いていないのか、弟妹たちは楽しそうに家の中を駆け回って遊ぶ。
彼方くんは何故か少し驚きながらも、その様子を笑って見ていた。相変わらず“性格以外は”完璧だから、両親はすっかり彼が気に入った様子だ。父とも仲良さげに話をしている。…緊張しすぎて滝のように汗が流れているところも親しみやすいとポジティブに捉えられたようで何よりです。
まあ、思ったよりもまともだったし、こんな休日も悪くないのかな。
弟や妹たちも兄が増えたかのように彼方くんを引っ張りだこで遊びに誘っている。そして彼方くんはこれまた嬉しそうに微笑むものだから、心臓に悪いんだけれど。
夕飯のカレーを食べ終える頃には、時計が20時近くを指していた。
母が食器を片付けようとキッチンへ向かうと、父がふと思い出したように2階にある私の部屋に埃が溜まってしまっているから片付けてほしいと言い出した。
ほとんど使っていないのにわざわざ私の部屋を残してくれていたんだ。
少し嬉しいような申し訳ないような気持ちになって、私は小さく頷いた。
彼方くんはにっこり笑って私の手を引いた。
勘が良いのか、いつの間にか我が家の間取りをすっかり把握したようで、真っ直ぐ階段へ向かう彼の背中に頼もしさと、どこか慣れない恥ずかしさを改めて感じた。
自分の家に友達がいるって、変な感じだな。初めて連れてくるなら未央とか、もっとまともな人だと思っていたのは秘密にしておこう。
やっぱりお金持ちの彼方くんからしたら我が家なんて本当に庶民の家にしか見えないんだろうか。
父と母は私の高校入学と同時に新しい家を買うことになった際、大きな邸宅ではなく普通の一軒家を選んだ。瀬奈もその方が居心地が良いだろう、と。
しかしその優しさを無下にするように私は一人暮らしの道を選んでしまったのだが。時折こうして実家に帰ってくると、少しだけこの家で本当の家族になれている気がする。
彼方くんの声でぱっと意識が引き戻され、慌てて手渡された鞄を棚に押し込む。
彼方くんの手伝いのおかげで思ったより早く部屋は片付き、ありがとう、と言うと、彼方くんは嬉しそうに笑った。
その言葉でようやく家に来てから彼方くんがずっと、嬉しそうに…だけどどこか寂しそうに笑っていた理由が分かった気がした。
以前、早織さんに「一宮家は優秀な人材を育てる為に幼い頃から帝王学を叩き込み、厳しい教育を受けさせる」と聞いたことがあった。早織さん自身もそんな暮らしに嫌気が差して一宮家を出、好きだった古書堂を始めたらしい。
もっとも早織さんの場合は優秀な兄がいたから出来た事だと語っていたが、彼方くんの場合は。彼は一人っ子で、生まれた時から優秀で。ずっと一人で厳しい教育を受けてきたのだという。
彼方くんが人付き合いが苦手なのはずっと一人で生きてきたからなんだろうか。
それに初めて気付き、鈍感な自分が途端に悔しくなった。
それから私は家族のこと、この家での自分の存在、一人暮らしを始めた理由、全てを包み隠さず話した。時に嗚咽が零れそうになる私の背中をさすりながら、彼方くんは静かに頷く。
中学1年生の頃、貧乏ながらも女手1つで育ててきてくれた母が今の父親と再婚した。一躍私は新興IT企業の社長令嬢となり、学校での扱いも途端に変わった。
私は何も変わっていないのに。社長令嬢になった途端の手のひら返し。それが嫌だった。思えばあれが私の唯一の反抗期だったのかもしれない。
二人が再婚してすぐ血の繋がらない弟と妹たちが生まれて、自分だけが家族の輪にそぐわないような気がしていた。
だから、だから。高校入学を機に無理を言って一人暮らしをさせてもらうことになり、自分がこの幸せな家族の邪魔にならないようにとバイトを掛け持ちしながらひっそり暮らすようになった。
それが私の秘密。未央にすら打ち明けられなかった臆病な自分だ。
ぱっと彼方くんの方を見ると、大粒の涙を流し泣きじゃくる彼の姿があった。
どうして、私のことなんかで__
彼は泣きじゃくり、嗚咽を零しながらもそう言った。
ずっと私が欲しかった言葉を、この人はこんな簡単に零してくれる。
不覚にもその姿に、胸が大きく高鳴ってしまったのはきっと気のせいだ。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。