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ある日突然
好き
愛してる
恋
なんて言葉がなくなってしまったら。
なくなっても、好きな人を好きでいられる?
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この世界では、愛情表現が禁じられている。
正確に言えば、「できなくなった」
言葉にしようとすると、
喉がひりついて音が出なくなる。
触れようとすると、
指先が空気をすり抜けるみたいに、感覚だけが消える。
好きだと伝えたい、抱きしめたい、そう思った瞬間に、世界がそれを許さない。
恋人たちは離れ、家族は距離を取り、街は静かになった。
——それでも。
「なあ、優吾」
田中樹は、俺の名前を呼ぶ。
それだけは、まだ許されているみたいだった。
「今日、帰り遅くなる」
「あ、うん。気をつけて」
それだけの会話。
それだけなのに、
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
前だったら、
「無理すんなよ」
「ちゃんと飯食えよ」
帰ってきたら、何も言わずに肩を並べて、ソファに沈み込んで。
今は、それができない。
樹は変わらないように見える。
軽口を叩いて、笑って、仕事の話をして。
でも、俺は知ってる。
夜、背中を向けて眠るとき、
ほんの少しだけ距離を詰めてくること。
触れない、触れられない、そのギリギリの場所まで。
「……なあ、優吾」
ある夜、樹がぽつりと言った。
「俺さ、お前が何考えてるか分かんねえ時がある」
心臓が跳ねた。
分かってる。俺が、何も言えなくなったから。
「嫌いになったとか、そういうんじゃねえってのは分かる。でも……」
樹はそこで言葉を切った。
きっと、その先にある言葉は、この世界じゃ言えない。
俺は、ゆっくり息を吸った。
言葉は使えない。触れることもできない。
それでも、向き合う方法は、きっとある。
樹の方を向く。
目を見る。逸らさない。
そして、静かに、時間をかけて瞬きをした。
——大丈夫。
——離れない。
言葉にならない想いを、視線に込める。
樹は一瞬きょとんとしたあと、困ったように笑った。
「ずりいな、お前」
その笑顔を見て、確信する。
愛情表現ができなくなっても、愛がなくなったわけじゃない。
伝え方が、変わっただけだ。
触れられなくても、隣にいる。
言えなくても、見つめる。
抱きしめられなくても、同じ時間を生きる。
この世界で、俺は樹と、そうやって向き合っていく。
愛情表現ができなくなったこの世界で。
それでも俺は、何度でも、樹を選ぶ。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。