調査報告書
20ーー年ーー月ーー日
〈死亡〉
夫 山桜桃〇〇(27)桃太郎機関ーー番部隊所属
妻 山桜桃〇〇(25)鬼
〈備考〉
互いの遺体に抵抗の痕跡が見当たらないことや,自宅にて発見された遺書から同意殺人と思われる。
死因は心臓を刺されたことによる出血性ショック。
妻の山桜桃〇〇は桃太郎機関の解剖の結果,鬼であることが判明した。
彼の同僚の供述により二人には生後間もない未だ行方不明の子供がいるという。
血とどす黒くドロドロした感情で汚れていた記憶。
止まることを知らない涙が一粒、また一粒と流れて汚れが剥がれ落ちていく。
あなたの優しい声が、繋ぎあった手の感触が、重ね合った互いの温もりが、一緒に過ごした幸せな時間が、蘇る。
忘れていない。
思い出せる。
「私も…ッ……私も、ずっとずっとッ…大好きだったッ…よ……愛、してた…。」
私の一番シンプルでどんな言葉よりストレートで美しい愛の言葉を、もう手の届かない場所にいるあなたへ。
白銀に輝く小さなリングの光は、永遠に結ばれなくとも愛し合うことを誓った私たちを祝福していた。
時は現在。
ぽつりぽつりと小さな雲が浮かぶ春の青空。
その下を真新しいセーラー服を身にまとった私は歩いていた。
足が出るのに合わせて、濃紺の生地の上で赤紅色のスカーフが踊る。
私の「家」は小高い丘の上にある。
小学生の頃とは大違いの重い荷物を持って坂道を登らなければいけない。
一ヶ月も前ならすぐに登ることのできた帰り道が果てしなく続く。
この後は慣れない学校生活でクタクタの体で宿題もしなければいけない。
やることを思い出せば思い出す度どんどん重たくなっていく足。
終わりのない坂道の先を見上げようと、ため息とともに俯いた顔を上げる。
その時憂鬱な瞳に、“それ“が映った。
不気味な生物。
そうとしか呼びようがなかった。
その生物の名前がわからないのではなく、ただ本当に不気味だった。
毛むくじゃらで二足歩行をしているそれは何かを探しているのかキョロキョロと辺りを見渡している。
やや猫背の背中からは鳥の羽が一対生えていて、頭は…骨だった。
長い鼻筋の骨格を見るに犬系っぽい。
どんな動物図鑑に、あんな生物が掲載されているのだろうか?
少なくとも、私は見たことがない。
ゴシゴシと目を擦ったり、瞬きしてみる。
そう信じて、目を開けてみた。
思わず声が漏れた。
さっきと変わらない場所でウロウロしている。
頬をつねってみようかと考えたが、何となく変わらない気がしたので止めた。
もう既に数十歩歩けば、あの生物の前を通ることになる。
別の道を通っても家には着ける。
しかし悲鳴を上げる寸前の足では、今更登った坂を下ってまた上るなんて出来そうにもない。
一刻も早く帰りたい気持ちと、あの生物の前を通りたくない気持ちがせめぎ合う。
どうしようかと考えている内に、次の一歩で目の前を通る所まで来てしまった。
次の一歩が踏み出せない。
運動靴の底がコンクリートにくっついて動かない。
今の私にとって、この生物は包丁を持った不審者と同じにしか見えない。
いっそ、最悪の場合どんなことをしてくるかが分かる後者の方がマシかもしれない。
ただ唯一の救いは、本当に少し手前で立ち止まっているのに視界に入っていないらしいことだった。
ところで一体どれだけの時間が過ぎただろうか?
世界ではそんなに時間は経っていないのかもしれない。
しかし既に私の体感はあの生物を見つけてから30分以上経ったように思える。
ギュッと握った手のひらに、じわりと汗が滲む。
今にも見つかってしまうのではないかと思うと、鼓動が早くなる。
大きく深呼吸をして、右足を踏み出した。
鉄の塊をくっつけているかのように、足が重い。
右足が地面に着いた。
次に左足を踏み出した。
右足よりも少しだけ軽く感じた気がした。
すぐ真横にいる生物は、私に気づいていないようだった。
次の一歩で、目の前を通り過ぎる。
そう思うと、心がふっと軽くなった。
安心して、また右足を踏み出した。
右足を地面に着けて、胸を撫で下ろした。
緊張が解れて今にも地面に座り込んでしまいそうだったが、いつ見つかってしまうか分からない。
安堵しつつ、足早に遠ざかろうとしたときだった。
ツンツン
誰かに肩をつつかれた。
くるっと振り返った。
もう大丈夫だと思っていた。
さっきあれだけの時間すぐ手前で立ち止まっていたのに気づかれなかったから。
『ミツケタ…ミツケタ。』
私より身長の高い生物は屈んで私の顔を覗き込んでいた。
そして低く唸り声にも似たような声で喋った。
というツッコミは言葉にならず、口は開けたままガクガクと震えた。
助けて、と叫ぼうとするが…。
絞り出した声は情けない「あ」だけだった。
実際不審者に出会ったら助けを求めるために大声を出せる子は少ないというが、どうやら本当らしい。
毛むくじゃらの手が、私の腕を掴もうと伸びた。
私は怪物から目を離さず数歩後退ると弾かれたように背を向けて全速力で走った。
もう足が痛いとか言っていられない。
痛みより恐怖が勝った。
速度は落とさず後ろを振り返るとすぐ後ろを走っていた。
50メートル走の計測をするときよりも、徒競走を走るときよりも絶対速く走っているはずなのに!
じわじわと差が縮まっていく。
普通に考えたら怪物と平凡な運動能力の私。
どちらが足が速いかは火を見るより明らかだが。
どちらにせよ、このままじゃ追いつかれてしまう。
ちょうど真横の曲がり角を曲がった。
そのまま考えるよりも先に更に曲がり角を曲がる。
この辺りは小さい頃から散歩などで通っているから大体の道は覚えている。
それにどこにいるか分からなくなるより、迫りくる怪物から逃げることの方が優先度が高い。
数え切れないくらいの角を曲がって曲がって走り続ける。
なるべく迂回してアイツを撒けば、ひとまず安心だ。
少しだけ速度を落として振り返ると、その先は静寂の住宅地があるだけだった。
自分が曲がってきた角を見ても怪物の姿は見えない。
キョロキョロと辺りを見渡してみる。
どうやら運良く家に近い所まで来ていたらしい。
小走りで今日何回目になるか分からない曲がり角を曲がった時だった。
ドンッ!
前を見ていなかったため、誰かとぶつかってしまった。
咄嗟に下がって謝ったときに、甘く上品なピンクローズの香りがした。
すると私に影が覆いかぶさった。
なんだか嫌な予感がして恐る恐る振り返る。
すると、そこにはさっき私を追い回した怪物。
とにかく、この怪物と距離を取ろうと後ろに下がる。
恐怖で足がもつれ、尻もちをついてしまった。
謎の男がそう言うと、怪物は何処かへ消えていった。
差し伸ばされた手を取って立ち上がった。
その時、男の口角が怪しげに上がった。
いつの間にか男の手は私の腕を掴んでいる。
背筋が凍った。
私の記憶にある限り、この人とは初対面だ。
私は彼の名前を知らない。
しかし、彼は私の名前を知っている。
ストーカー?
誘拐犯?
何にせよこのままはヤバい。
絶対ヤバい。
私が精一杯振り解こうとしても、ガッシリと掴まれていて到底敵わない。
むしろ私が抵抗すればするほど力が強くなっている。
男は笑いながらどんどん力を込めていく。
腕がミシッと音を立てる。
グッと腕を強く引っ張られる。
長い間掴まれていた右の腕は感覚がなかった。
そっと左手でリュックサックのサイドポケットに触れる。
硬い感触。
私はソレを取り出すと、迷わず紐を引っ張った。
ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ!!
私が使ったのは防犯ブザー。
音に驚いて一瞬力が弱まったところを逃さなかった。
13年生きてきた中でも一番の俊敏性で男から離れると、大音量で鳴る防犯ブザーを思いっきり投げる。
そして投げた方向とは反対方向に駆け出した。
目指すは「家」だ。
そんな会話を背中で聞きながら、悲鳴を上げる足を意地で動かした。
To Be Continued…














編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!