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第3話

咳(ior, 他)
30
2024/05/26 03:00
※注意※
・嘔吐描写あります
 激しく咳き込む音が寂しそうに自室に響く。部屋の主はベッドの上で枕に顔を埋め体を震わせている。熱い息を吐き、天井を見上げるその瞳は潤みどこか遠くを見つめていた。彼女は心配だった。自分が咳をすることで同居人が不快に思うことを恐れていた。ただでさえ気を遣わせてしまっているのにこれ以上迷惑はかけられない。息を吐いて枕元に手を伸ばし、ペットボトルを手に取る。が、その中身は空だった。重い体を起こしてキッチンまでふらふらと歩いた。如何せん咳で体力を削られているため、常に眠気に襲われている。

 水を汲み、一口含むと心地よい冷たさが喉元を伝い、険しい表情が和らいだ。部屋に戻る気力がないのか共有スペースのソファに腰かけた。時刻は午前3時、誰もいない部屋は恐ろしいほどに静かで、空っぽだった。彼女が咳をするとその音が大きく響いた。
(こんなに、広かったかな。)
すると、あなたの背後に誰かがやってきた。

「あなたさん……?」
「……虎さん。」
「どうしたんですかこんな時間に。まだ風邪治ってないんじゃ……」
「……いえ、その、水を取りに来たんです。でも、何となくここにいたくて。」
「ああ、そうだったんですか。……いいですよね、ここ。温かくて賑やかで楽しくて。」
「はい。……うん、でもそろそろ寝ようかな。」
「その方がいいですね。おやすみなさい。」


翌日
 朝、目を覚ましたあなたは体を起こそうとした。すると、ピキと腹筋が痛み顔を歪めた。
「咳しすぎたんだ、笑うと痛いよな……」なんてことをぼんやりと考えていると何となく昨日よりも若干体調が良くなっているような気がしたのかほっと息をついた。だが、まだ依然として咳はおさまらないうえ、咳と熱で良く眠れていないことも実感していた。朝ごはんを食べるためにダイニングの方へ向かうと、トタトタ駆けてくる依央利と鉢合わせた。

「あなたさん、おはよう。……って、ちょっと寝てなきゃダメでしょ!僕に負荷をちょうだい……じゃなくて、まだ治ってないでしょ。悪化したらどうすんの。朝ごはんなら僕が運んであげるからさ。」
「は、はい。」

 依央利は嬉しそうに彼女を部屋に連れ戻した。あなたは天井を見上げてゆっくりと深呼吸した。

 その日も一日中布団とお友達だった。それでも学校がなかったのが救いで、眠りにはつけなくとも体を休められた。

 晩御飯の時間になった。あなたもダイニングへ向かい皆が同じ空間に集った。大分熱は下がり、微かに咳をするばかりだった。

「あなたさん、もういいんですか。」
「理解さん……はい、もう大分良くなりました。まだ咳がちょっと残ってるんですけど……」
「そうですか、無理は禁物ですが......回復したようでなによりです。」

 みんなで食事を摂りはじめてしばらくすると、あなたは咳が止まらなくなってしまった。皆から顔を背け、服の袖で口元を押さえて咳き込んでいる。

「げほっ……げほっ……!」
「大丈夫ですか、お水もってきましょうか。」

あなたがこくこくと首を縦に振れば依央利がコップをもって席を立つ。隣に座っていたテラが背中をさすり、目尻から零れている涙を拭う。

「ごほっ……ごほっ……けほっ…………!!う゛っ……すぅーーっ!……!」

肺の空気をすべて吐ききってしまい、新しいものを取り込もうとして変な音が出る。あなたの顔はぐちゃぐちゃで、息をすることだけで精いっぱいだった。しばらく咳き込んでいると、彼女の背中がぶるっと震えた。

「げほっ……ゴポっ……」

喉の奥から濁った水音がして、どろどろの吐瀉物が服とダイニングの床を汚した。彼女は依然として咳き込み続けており、もう体力は少しも残っていない。

「ごほっ……ごっ……ごめん、なさい……」
「気にすんなって、今は自分のことだけ考えてろ。」

猿川はそう言って席を立ち、ティッシュを持って帰ってくる。受け取ったそれで口元を拭えば多少不快感が無くなったようだ。

「落ち着いた……かな。そうだ、着替え……。」
「僕が持ってくるよ~今日洗った服さすがに乾いてるよね……」

依央利はパタパタと廊下の方へ向かった。

「……まだ気分悪いですか?」
あなたがこくり、と頷けば大瀬はポケットからごそりとビニール袋を手渡す。そしてそのまま「何もできなくてごめんなさい。」と誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。

 あなたは着替えを済ませて水分を摂って、自室のベッドに横になった。時々枕顔を埋めて苦しそうに咳き込んでいる。やっぱり自室の中に乾いた咳が響き、あなたはどことない寂しさを感じていた。

(いつ治るのかも分からない。眠れてないし、なんかしんどい、かも……。)

 コンコンコン、とノック音がする。ガチャリとドアが開いて依央利が顔を覗かせる。

「あなたさん……寝られないですか?お茶でも飲みますか?」
「い、いえ……今はいいかな。でも、ありがとうございます。」
「そうですか。」
「ちょっと待ってください……いや、あの。……えっと。」
「なんですか?命令なら何でも聞くよ。」

「少しだけ、でいいから側に居て欲しい。」

「かしこまりっ。」
 依央利はあなたの傍らに腰を下ろした。あなたが伸ばした手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
2024年5月26日

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