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第1話

POV:キツネ
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2025/12/18 11:05 更新
食べる側か、食べられる側か。

それがこの世界の定理だ。いつからこうなのかは誰も分からない。でもずっと昔から社会に根付いた感覚はそう簡単に無くなるわけではない。

僕の住むこの世界では、人々は必ず特定の動物の加護を受けていると信じられている。赤ちゃんが生まれる時に立ち会うのは家族、医師、看護師、そして祈祷師。産声をあげた瞬間に祈祷師が子供の守護動物を告げるのだ。なんともスピリチュアルな話で、どこに科学的な根拠があるのかと問われれば答えられる人間はいないだろう。しかし、そんなことを信じて社会の軸にしてしまうのが人間というものだ。動物はふたつに分類される。肉食動物か、草食動物か。社会の80%を占めるのは草食動物だ。今の世界ではたった2割しかいない肉食動物は社会階級の上層を占めている。能力的にも身体的にもほとんどの草食動物を上回るという科学データも存在するらしい。というわけで、肉食動物は上流階級、草食動物は中・低流階級、そんな仕組みが気づいたら出来上がっていたのだ。

ファン・ロンジュンの守護動物は狐だった。

親の守護動物は犬なのに、子供が狐。草食動物の夫婦から肉食動物の守護がかかった子供が産まれるのは珍しい事例なのだ。しかもよりによって狐。

狐というのは元来イメージ的にずる賢く、草食動物だけでなく同類の肉食動物からも煙たがれる存在だ。両親は僕が産まれて祈祷師が『狐』と言った瞬間に病室が静まり返ったと言った。本来、守護動物の判断が下ったら身体に印を残す必要がある。肉食動物であればそのステータスを知らしめるために身体の見えるところに入れる人もいれば、草食動物の中でも地位の低い動物だった場合は見えないところに入れたりもする。うちの母親は後者に近かった。狐は肉食動物だが、イメージが良くない。僕が将来少しでも幸せに生きられるようにと、狐の印は僕のお腹に入れられた。今考えると母親のこの選択は英断だったと思う。

ロンジュンが初めて自分の守護動物を隠さなければと意識したのは小学生の頃だった。ウキウキした気分で入った教室、隣に座った女の子とも仲良く話していた。名前はスヨンだったっけ。しかしロンジュンが明るい未来だけを想像していたのはたったの数分だけだった。

「じゃあ次、ロンジュンくん!自己紹介をお願いします」

はい、という声とともに意気揚々と立ち上がったロンジュンは名前を言ってから好きな食べものの話をした。好きな食べものがアイスクリームだと言うとクラス中が「僕も私も」と盛り上がり、ロンジュンも思いがけない良い反応に気分が良くなっていた。

「それと、ぼくはきつねです!」

クラス中が一瞬静まり、ヒソヒソ声が大きくなっていった。「キツネって悪者じゃーん」「昨日見た絵本で沢山嘘ついてたよ」、そんな声が幼いロンジュンの耳にもハッキリと聞こえてきた。

前の子もその前の子も自分の守護動物の話をしていたから僕もそうしただけなのに。

先生が苦笑いでクラスを落ち着かせながら「守護動物がキツネなんだね!いいね!かっこいいね!」と言っていたが依然としてクラスのみんなはロンジュンを疑うような目つきで見ていた。

その日、家に帰ってロンジュンはわんわんと母親に泣きついた。「みんなはきつねが嫌いなの?」、泣きながらそう言ったロンジュンに母親はごめんね、ごめんねと謝り続けた。今思うと謝るべきはロンジュンの守護霊が狐だと何の根拠も無しに告げた祈祷師であり、母親は謝る必要なんてなかったのに。母親のエプロンがびしょびしょになるまで泣いて、気づいた時には毛布をかけられてソファーで寝ていた。父親が「ご飯食べに行こうか」と言ってその日は家族みんなで火鍋を食べに行ったのだった。ロンジュンの母と父はとても優しく、その日はロンジュンに食後のデザートを気が済むまで食べさせてくれた。その日からロンジュンは自分の人生に踏ん切りがついた、こういう人生なのだと。そもそも守護動物なんてものは明かさなくても生きていくことができる。わざわざ自分の守護動物を言うのなんて明かしてメリットがある肉食動物くらいだ。

時に子供の素直さというのは残酷だ。次の日には全校生徒がロンジュンの守護動物が狐であることを知っていたし、「創立してから初の狐の生徒だ」なんて言葉まで聞いた。ロンジュンは6年間ずっと目立たないように過ごしてきたが、守護動物が狐であることの不利益は毎日のように感じていた。

小学2年生の時、放課後遊ぼうと誘われてウキウキしながら集合場所に行ったら誰も来なかったことがある。
小学5年生のバレンタイン、好きだった女の子から自分だけチョコレートが貰えなかった。
中学2年生の時、修学旅行の班決めで自分だけがあまり、保健の先生とふたりで観光をした。

うん、こう考えるといじめられていたのかもしれない。しかし、ロンジュンの精神はなかなかに強く、“自分はこういうものだ”と受け入れてスクスクと育っていった。いつだっただろうか、母親が言ったことがある。「人生なんて一人だけでも自分を分かってくれる人が入れば万々歳なんだよ。ロンジュンの人生にはもうお父さんとお母さんがいるから満点なの」。この言葉に救われていたのかもしれない。

そんなこんなで一匹狼ならぬ、一匹狐状態で過ごしていたロンジュンに初めて訪れた転機は高校生の時だった。高校は地元から片道1時間半ほどかかるずっと遠い高校へ進学したため、ロンジュンの守護動物を知る人はひとりもいなかった。ロンジュンも高校まで偏見の目に晒されたくないと思っていたのでそこが第一志望の学校だった。まだピカピカでシワひとつないブレザーと共に入学式を終えて教室に入ったロンジュンは人生で初めて緊張していた。みんなが自分の守護動物を知らない。ということは偏見なしに自分のことを見るんだ。今まで人に嫌われようが、『だって自分は狐だから』という諦めの気持ちがあった。しかしここでは、みんながロンジュン自身を見て、友達になるかどうかを決めるのだ。

自分って、そもそも友達になりたいって思ってもらえるような人間なのかな。

周りの子が成長と共に身につけてきた協調性や社交性を持ってないことに気づいたのだった。

そんな気持ちで自分の席に着いていたロンジュンは意味もなく自分の名札をいじっていた。すると、ロンジュンの前の席にキラキラしたオーラを纏った男子二人が座った。

「高校入ってもまた隣なんて運命じゃないの!ジェノエド〜!!よしよし」

「ちょっとジェミン。初日からまた周りが変な目で見るから」

「あ〜、なんでそんなこと言うの!」

怖い…高校生って感じがする。さっきから大声で片方に絡み続けている男子はキラッキラの光が出ているみたいだった。目は大きくて髪もサラサラで笑顔が眩しい。首元にうさぎのマークがあるから、守護動物はうさぎなのだろう。そしてうさぎの男にずっと絡まれている方は、凄くイケメンだ。うさぎの方がキラキラした王道王子様系イケメンだとするなら、こっちはお姫様を守る騎士かな。身体もロンジュンとは違ってがっしりしているが、スタイルはスラッとしている。そして口では嫌と言っておきながら、ニコニコしながらうさぎの方のちょっかいを受け入れている。優しい子なんだろう。それにこのふたりが一緒にいると…女子生徒の視線が凄い。最初から失敗したかな。目立たない学生生活を送って一人くらいは友達が欲しかったんだけど。既に周りの子はグループで固まり始めていて、ロンジュンは一人だった。目の前の二人を除いて。

ロンジュンはため息をついて自分の机の模様をひたすら見るという作業に没頭していた。すると目の前にいきなり大きな手が現れた。

「よろしく」

ニコニコしながら手を差し出していたのはうさぎの男だった。

「だから脈絡も無しに動くなって。ごめんね、こっちがジェミンで、僕はジェノ」

あまりの衝撃に固まったロンジュンを見てジェノがそう言った。

「あ…ロンジュン…です」

差し出された手と握手をするとジェミンは満足したように笑って前を向いてしまった。なんだったんだろう。特にそれ以降会話をすることがなくSHRは終わった。みんなが下校の準備をする中、ロンジュンは早く誰かに話しかけなきゃと一人焦っていた。隣の女子は…他の子と帰るみたいだね。あ、後ろの男の子、話が会いそうな雰囲気だっ…もう帰ってるね。上手くいかないものだ。とりあえず鞄を持って立ち上がろうとしたところ、ジェミンが急に振り返った。

「ロンジュナ、帰るの?一緒に帰ろうよ!」

内心、嬉しいとどうしようの気持ちで半々だった。自分を誘ってくれる人がいるという嬉しさと、ジェミンとジェノと居ると目立ちそうだという不安。でも僕は今選べる立場にいないし…そんなことを考えてロンジュンは笑顔で「いいの?」と答えたのだった。


「えー!ロンジュナ、片道1時間半もかけてるの?」

ジェミンは表情がいちいち絵文字みたいにころころ変わる子だ、そんな印象を受ける。

「うん、でも早起きは嫌いじゃないから」

「僕、ジェノにいつも30分前に起こしてもらってるのに…」

「ジェミンとジェノって幼なじみなの?」

「ずーーーっと一緒!幼稚園からね」

「家も隣だから」

そうやって笑ったジェノはどこか嬉しそうだった。

「いいな〜。幼なじみとか僕いないよ。友達もいないし」

「ロンジュナ!友達!僕たち!!」

ジェミンは目をまん丸にして自分自身を指差した。

プハッ、思わず吹き出してしまったロンジュンには最初の方に感じていた不安などもう無かった。乗りかかった船、差し伸べられた手だ、掴んでしまえ。

「そうだね、じゃあ僕の初めての友達、よろしく」


3人での高校生活は本当に楽しかった。ロンジュンが今まで作れなかった思い出は全部高校時代で作ることができた。帰り道のゲームセンターも、コンビニの買い食いも、修学旅行も、受験勉強も、全て3人だった。仲良くなってすぐに自分の守護動物が狐だという話を結構深刻な雰囲気でしたところ、二人とも「「うん、で?」」という表情をしていて、ロンジュンは嬉しいのか期待はずれの反応だったからか、少し涙が出そうだった。周りも守護動物がうさぎのジェミン、犬のジェノといる自分を見て勝手に草食動物だろうと接してきたし、特に訂正する必要も無いので適当に流して過ごしていた。やはり同じ守護動物の分類同士で固まる傾向があるのだ。


二人と出会って4年目、三人は同じ大学に入学した。ロンジュンにとって二人は、両親の次にできた理解者だった。

「ロンジュナ、スーツ気合入ってる」

「気合い入ってるっていうか…こういうのが好きなだけ」

笑いながら揶揄うジェノの攻撃をやれやれとロンジュンはそつなくかわした。しかし…大学でも君らは注目を集めるんだね。スーツで決めたジェミンとジェノには相変わらず女子たちの視線が集まる。体格が良くて背も高い二人に挟まれる華奢な自分が建物のガラスに映ってロンジュンは少し文句を言った。

「ロンジュナ、自分の顔を鏡で見たことある?みんなが見てるのはロンジュナの顔だと思うよ」

ロンジュンにはそういうジェミンの声が励ましにしか聞こえない。

会場が開き、続々と学生たちはホールに入っていく。人で混雑するホール内に何とか入り、後ろの方の端の席に3人並んで座ると大勢の新入生の姿が見えた。新しい友達は要らないかもな。二人がいればいいし、人が増えればリスクも増えるものだし。そんなことを考えていたロンジュンにプログラムをめくっていたジェミンが声をかけた。

「あ、これこれ、この新入生代表。李財閥の一家だって。」

「「ふーん」」

「おーい、なんで二人はそんなに関心がないの!!」

「いや、ジェミナ、なんでいっつもそういうこと知ってるの?」

「人脈ってやつだよ」

イ・ヘチャン…。財閥の息子だなんて一生関わらないだろうな。

「しかも守護動物が熊!将来が約束されてるよね〜」

は〜、人生イージーモードってやつか。羨ましいという気持ちより住む世界が違いすぎて何の感情も湧いてこない。

入学式は中盤になり、暖房の効いた空間と単調に繰り返される登壇者のスピーチに会場に眠気が押し寄せていた。

「新入生代表スピーチ、イ・ヘチャンくん」

その言葉と共に周りがハッと起き始め、後ろの方にあったマスコミのカメラもパシャパシャと音を立て始めた。ロンジュンは眠たい目を擦りながらステージに立つ男に目を向けた。ジェミンは隣で「この人この人」と指さしていたし、その奥のジェノは完全に寝ていた。ステージ上のヘチャンがこちらを見た気がしたが、ロンジュンが瞬きをすると、既に目線は前に向いていてスピーチを始めていた。そんなわけないか、一番後ろの列だし。つらつらと何食わぬ顔でスピーチを終えたヘチャンは見るからに高そうなスーツに、高そうな腕時計を付けていて、佇まいも余裕で溢れていた。ステージの上で立っているヘチャンと一番後ろの席に座るロンジュンの距離が、まさに住む世界の違いを表しているようだった。

入学式が終わると、会場はみんなヘチャンの話で持ち切りなようだった。

-私たちの代にこんな財閥の息子がいるなんて!
-付き合いたーい
-あれで守護動物が熊でしょ?ネズミの私じゃムリムリ
-最低でも羊とかじゃない?
-あーわかる



「あれ、席にハンカチ忘れた」

「えーちょっとロンジュナ〜、あと10分で電車来ちゃうって」

「先行っていいから」

「今日は一緒に帰ろうよ、待ってるから行っておいで」

「ごめん、ありがとう。すぐ行ってくるから!」

「うん、走れよ〜」

ジェノは基本優しいが、こういうところが怖いんだよな。身体の可動域を制限するスーツだから走りにくいが、ロンジュンはなるべく全速力で走った。ホールに入ると人の気配が全くなく、ロンジュンのゼェゼェという息遣いだけが響いた。先程まで座っていた後ろの席へ向かうと、人影があった。暗いホールの中だと顔がよく見えないのだが、段々近づくとその顔が顕になった。

「あ」

イ・ヘチャンだった。なんでここにいるんだろう?彼は手元にロンジュンのハンカチを持っていた。

「ごめん、ありがとう。それ僕の」

ヘチャンは何も言わずにロンジュンのハンカチを差し出した。が、ありがとうと言って受け取ったハンカチをヘチャンが離さない。

「えっとー…ごめん、急いでるんだ。もしかして拾ってくれた?今度お返ししますから」

財閥の息子に返せるものなど何も無いが、ジェノの急げという声が頭に残っていたのでロンジュンは焦っていた。ヘチャンの手から奪うようにハンカチを取って、ロンジュンは駆け出した。最後までヘチャンは何も言わなかったが、ヘチャンの視線が背中に刺さっている感覚がした。

「ロンジュナ〜、ラストスパートだよー」

建物から出てきたロンジュンを見たジェミンがぴょんぴょん跳ねながら手を振る。ロンジュンはもう肺が苦しくて仕方がないが、最大限の力を振り絞って二人の元へ走った。

「お疲れ様。電車は間に合わないね、次ので行こう」

「は!?こんなに走ったのに…」

「ロンジュナ、運動した方がいいから」

ジェノが一瞬悪魔に見えた。いや、10秒くらいそう見えた。三人は次の快速電車が来るまで駅の中のカフェで暇を潰すことにした。ロンジュンは高校があった町に引っ越して一人暮らしを始めたため、ジェミンとジェノとは晴れて同じ最寄り駅になった。大学までは1時間ほどかかるが、高校3年間片道1時間半かけていたロンジュンには痛くも痒くもなかった。普通は一人暮らしするなら大学近くでアパートを見つけるべきなのだろうが、特に深く考えていなかったロンジュンは家賃も安く慣れ親しんだ2人のいる町でアパートを探した。湯気がもくもくと漂うコーヒーを前にしたロンジュンは特大ニュースを持ち込んだという顔で話し始めた。

「それで、ホールに入ったら誰もいなかったの」

うんうんと頷きながらジェミンは3個目の角砂糖を入れた。

「席まで行ったら、そこにイ・ヘチャンがいたの!!」

「なんで?」

「なんで?そんなの知るわけないじゃん」

「ヘチャンがロンジュナのハンカチを見つけてくれたってことでしょ?」

「え、いやそうなんだけど… 反応がつまんないなー」

「じゃあなんて言えばいいんだって〜、もっとこう、ヘチャンに殴られたとかさ!」

4個目の角砂糖が入った。

「そんなことするわけないだろ」

「まぁ、ヘチャンと仲良くなって就活する時コネで入れさせてもらおう」

そんなジェノの言葉に三人は大笑いしてまた電車を逃すところだった。

家に帰ると、まだ片付いてない段ボールが目に入って気分が重くなった。さっとシャワーを浴びて、まだびしょびしょの髪をタオルで拭きながら冷蔵庫を開けると、母親が残してくれたおかずがもう残り少なくなっていてまた気分が落ちた。ご飯を食べながら、そういえばイ・ドンヒョクも経営学科って書いてあったなと思い出して、なぜかまた気分が落ちた。入学式だったというのに気分が暗くなりながら眠ろうとしたところ、枕元のスマートフォンが鳴った。ジェミンかなと画面を開いたところ、ロンジュンは飛び上がって何故か正座になった。送り主はミンジュン先輩だった。ロンジュンがわざわざこの街に住んだ理由はまだひとつあった。高校から始めているカフェのバイトをやめたくなかったからだ。

ロンジュンは、3個上のミンジュン先輩に恋をしていた。

二人を繋ぐのはバイトだけだったからロンジュンはできればカフェを辞めたくなかったのだ。この街でアパートを見つけると言った時、ジェミンとジェノにはすぐその魂胆がバレて大恥をかいた。ロンジュンの好きな男は誰だ誰だとバイト先に乗り込んできたことがあった。そんなミンジュン先輩からのメッセージを開くと、

-ごめん、シフト代われる?

うん。自分でも脈が無いこと位分かってる。「はい、代われますよ」と送ったロンジュンは直近のトーク履歴が全てシフトの相談なことに気づき、今日一番のため息をついた。大学生活、平穏に暮らせますように。

***


「それで新しいバイト始めるって?」

「うん、家庭教師とかしようかなって。カフェだけだとやっぱり厳しいし」

「僕らと遊ぶ時間確保してよ〜」

「うるさい、実家暮らし。甘えるな」

ちぇっと口を尖らせたジェミンは少し拗ねてしまったようで、ジェノとロンジュンは顔を見合せた。

「はいはい、遊ぶから。機嫌直せよこのうさぎ」

「ロンジュナってなんでこんなに顔可愛いのに言葉がトゲトゲかね〜」

ジェミンの肩をグーパンしたロンジュンは逆に自分の拳が痛くて手を抑えた。運動…した方がいいのかな…。そんなようにいつものように迎えた講義、今日が3回目だ。大学生活の真新しさに触れながら三人は楽しい大学生活を送れそうだとワクワクしていた。教授が講堂に入ってきたのを見て、ロンジュンがパソコンを鞄から取り出すと隣にドサッと人が座る音がした。

イ・ヘチャンだった。

なんで?なんでここに?いや、めちゃくちゃ席空いてるんだけど、なんで僕の隣?クエスチョンマークが止まらないロンジュンの顔にヘチャンは見向きもしない。慌てて隣の二人の様子を伺うも、二人も顔にクエスチョンマークを浮かべていた。するとジェミンが何かを急いでノートに書いてロンジュンに見せてきた。

-やっぱり何かしたんじゃないの?ロンジュナ
-してないって
-じゃあなんでこんなに広い講堂でわざわざそこに座るの
-知らないってば!!!!!!

「ダメだった?ここに座ったら」

ノートに書いてあるやり取りをじっと見ながらヘチャンがそう聞いた。

「あ、いや、ダメってわけでは」

ロンジュンは急いでノートを閉じてジェミンに放り投げた。ノートはジェミンの頭に当たり、「いたっ!」という声と教授の冷たい視線が向けられた。

「良かった」

気まずそうに縮こまったロンジュンを見てヘチャンはそう呟いた。ロンジュンが何かを言う暇もなく授業は始まってしまった。1時間半が経ち、長い講義が終わったが、ロンジュンは終始気が気でなかった。この気まずい雰囲気からやっと解放される、と急いでその場を去ろうと立ち上がったロンジュンの手をヘチャンが掴んだ。

「ロンジュン借りてもいい?」

そう聞かれたジェミンとジェノは、ロンジュンのSOSの表情を見なかったことにして、どうぞどうぞと言い、逃げるように去った。裏切り者。でも、なんで?本当に気に障ることしたのかな。ハンカチ欲しかったとか?あれ、なんで名前知ってるの?




「食べたいものある?」

「は?」

「何か食べたいのある?」

「あ、えと…要件があるならここで…」

鞄を握った手がより一層ぎゅっと強くなり、まるで警戒心で毛が逆立っている小動物のようだった。

「お返しするって言ったじゃん」

ロンジュンの脳裏に入学式のホールでのことが思い出された。

「え、あの、その、じゃあ、ハンバー…ガー…」

断る雰囲気でも無く、というか断るのも怖かったので目を泳がせたロンジュンは適当に思い付いた食べ物を声に出した。





「ハンバーガーとチキンバーガーひとつずつ、ポテトLと、コーラとジンジャエールお願いします」

ロンジュンがハンバーガー屋に入った時に聞いたのは衝撃的な一言だった。
「ごめん、でも俺ハンバーガーどうやって買うのか知らないや」
まぁ、そういうこともあるだろう、財閥の息子だしね。いや、元々僕が奢る予定だったし。そもそもカツアゲが目的なら凄い高いレストランに無理やり連れて行って僕に払わせればいいのに… 20000ウォンもかからなかったカツアゲに内心ホッとしたロンジュンではあった。

「えっと、番号が呼ばれたら商品を受け取って席に着きます」

「うんうん、オッケー」

今この空間があまりにも奇妙すぎる。ハンバーガー屋にイ・ヘチャンと二人、心なしか周りの目もこっちに向いている感じがする。大学生活まで注目を浴びたくない、もし狐だってバレたら4年間また面倒になってしまう。今日で満足してくれたらいいな。

ピコンッ

ロンジュンの携帯が鳴った。沈黙のこの空間が耐えられず、急いで画面を確認すると、ミンジュン先輩だった。ロンジュンは知らない間に顔から笑顔がこぼれ、ヘチャンに見えないようにスマホを傾けながら返信を打ち込んだ。

-シフト代わってくれてありがとう!お礼のお菓子、ロッカーに入れておいたから
-いいのに。ヒョン、ありがとうございます。

ミンジュン先輩の顔を思い出すだけでまだこの空気を和らげることができた。

「誰から?」

横からロンジュンの様子をジッと見ていたヘチャンがそう聞いた。

「べっ、別に誰でもないです」

「ふーん」

警戒心がMAXになり、無意識に横へ3歩ほどヘチャンから遠ざかったロンジュンを見て、ヘチャンが横へ3歩近づいた。熊に逃げ場を無くされた狐は話をそらす。

「606番、まだ呼ばれないですね」

「そうだね」

ヘチャンの手がロンジュンの腰に回った。

狐は熊に捕獲された。ロンジュンはヘチャンのこの奇妙な行動になんと言ったらいいのか分からず、ドギマギしながらも無反応を貫いた。606番が呼ばれると「ここです!僕です!」と店内に響き渡る声でヘチャンの手を無理に振りほどいた。

ロンジュンは5分ほどかけてヘチャンにハンバーガーの食べ方を教えた。

「そうそう、でも下からこぼれやすいので持つ時は気をつけてくださいね」

「…入学式の時はタメ口だったよ」

「え?あぁ、いや…その時は急いでたから。気に障ってましたか?」

「ううん、タメ口にして」

「あ、はい…………うん」

凄くコミュニケーションの取り方のリズムが独特でペースが持っていかれる。しかし、本当にこの状況が不思議だ。ヘチャンはパーソナルスペースが近くて、相手の目をちゃんと見る人、ロンジュンが今日知ったヘチャンの特徴だった。





「へぇ、それで二人でハンバーガー食べたんだ」

「面白いね、財閥の息子くん」

昨日あった出来事をジェミンとジェノに何から何まで共有していたロンジュンは背後の気配に全く気づかなかった。目の前の二人の顔がどんどん曇っていくのにやっと気づいたロンジュンが後ろを振り返るのと同時にヘチャンが抱きついてきた。

「おはよ〜、ロンジュナ」

ロンジュンの肩に頭を乗せたヘチャンがロンジュンの耳元でそう囁く。わぁー!!!という声と共に逃げ出そうとしたロンジュンだったが、身体に巻きついた手はなかなか離れようとしない。

「二人、仲良いんだね」

ジェノが発した言葉にヘチャンは「ありがとう」と言った。ありがとう???ほとんど初対面なんだけど。やっぱり僕絡まれてるのか?魂胆は一体なんだ?

それからというもののヘチャンは毎日ロンジュンにくっついてきた。気づけば隣で講義を聞いているし、お昼を一緒に食べていた。朝も気づけば大学の最寄り駅で待っているし、帰りも駅まで着いてくる。ロータリーに止まっている高そうな黒いバンがきっとヘチャンの車なのだろう。でもそこまでしてなんで?最初の方は一緒にいてくれたジェミンとジェノも途中から遠慮するようになった。せっかく3人で大学生活を謳歌するって決めたのに…。ロンジュンのヘチャンに対する印象は変わらず“距離感の近い変なお金持ち”だったが、前よりは会話に緊張感もなくなっていた。

「え、マークってあのイ・マーク?」

「うん。俺に良くしてくれるヒョン」

いつものようにロンジュンにくっつきながら歩いていたヘチャンはニコニコとそう言った。

「えー!めちゃくちゃ有名人…ってヘチャンも有名人か」

「そうかな?」

「やっぱり凄いな〜、強者は強者といるものだよね」

ロンジュンは何の気なしにそう言ったが、ヘチャンの足が止まった。

「俺そういうの嫌い」

急にヘチャンから放たれた『嫌い』という単語にロンジュンは少し怯んだ。気を悪くさせてしまったかな?

「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて…」

無意識に戻ってしまった敬語の口調にヘチャンは顔をしかめてロンジュンの頬をつねった。

「いいよ、可愛いから」

そう言ってまたロンジュンにくっつき始めたヘチャンの手が先程より強くロンジュンを抱きしめている感じがした。ロンジュンはヘチャンがこうやってくっつくのは嫌ではなかった、好きでもなかったが。どこか財閥の息子というのを意識して強く言えないという自分もいた。ヘチャンがこうしてくっついてくる時、ロンジュンは変な気分になる。何もしてないのになんでこんなに受け入れられてる感じがするのか不思議でならなかった。


***


そんなこんなで時は過ぎ、季節は冬に入り始めていた。あまりの寒さに街が冷たく、簡素に見える季節だ。ロンジュンの元に一本の電話が入った。

-ファンさん?ちょっと話があって

ロンジュンがバイトをしている家庭教師派遣会社からだった。

-ごめんね、忙しいところ。ちょっと大事な話があって
-大丈夫ですよ。なんですか?
-ファンさんを指名しているご家庭があって
-はい
-お金は充分出すから今ある他のご家庭との契約は切って、こちらに専念して欲しいとのことで…
-はい!?無理ですよ、今受験前のこの時期になんて
-うんうん、それは本当に分かっているつもり。こっちで他のチューターを回しておくから…
-いや、そんなこと有り得ますか?無理ですって…


いた。そんなことができてしまう人間が、ロンジュンの周りに一人だけ。


-うん。でもね、その依頼主が…李財閥らしくて
-……
-うちは小さな会社だから断れる立場にないの。分かってくれる?
-……はい。

そこまでして僕に執着する理由はなんだ?ロンジュンは怒りが止まらなかった。ジェミンとジェノだってヘチャンが僕に付きまとうようになってから中々会えなくなってしまった。今度はバイト先まで?なんの嫌がらせだよ。厄介なやつに絡まれてしまった。ロンジュンは会社からの電話を丁寧に切った後、怒りが収まらない気持ちで自分からは一度もかけたことのない番号に電話をかけた。

-今どこ!

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