薄く透けたレースが、ふわりと揺れる。
緑と黄の宝石が、白い肌の上で光った。
開いた窓から差し込む陽の光が、部屋の中を明るく照らす。庭に生える大樹が風に煽られてザアザアと揺れ、カーテンが波打ちながら広がった。鳥のさえずり、時計の針の音、紅茶と朝食の匂いが、五感を緩やかに刺激する。外と隔離されたこの部屋は、朝の仕事に追われて走り回る使用人達の足音や声ひとつ聞こえない。
目を瞑れば開放的だが、天井から吊り下がる小ぶりなシャンデリアや豪勢な家具、柄のある壁や絨毯は、この広い部屋をどこか閉塞的に感じさせる。
そんな部屋の隅にあるドレッサーの前で、ヘチャンは一人の男の世話をする。
細く茶色い髪に櫛を通して整えると、首元を飾る控えめな宝石のネックレスの捻れを直した。そして引き出しの中に入っている小さな缶を取り出せば、蓋を開けて親指で中のクリームを掬って名前を呼んだ。
「ロンジュン様」
「ん…」
眠たげな返事を返す彼の顎を持ち上げると、支えたまま掬ったクリームを唇に薄く塗り広げた。口端からすっと指を滑らせれば、唇が少し赤く色付いていく。
鏡に映る彼に、目が止まる。
手にかけてきた人間の中で、一番綺麗だ。
日焼け一つしていない白い肌、小さい顔に収まる整った目鼻立ちは陶器人形を想起させる。細い首元を飾る宝石の装飾品やフリルとリボンのついたブラウス、スカート状に見える黒いズボンと腰元を締めるコルセット。磨かれた茶色い靴に、細い足を包む白い靴下。好き勝手に脱がされて着せられ、触られる事を拒まず嫌がりもしない様子は着せ替え人形宛らである。彼が纏う服から装飾品、皮膚やら何まで、スラムで生きる貧困民は触れることすら難しい程綺麗なものばかりだ。
身支度を終えると、車椅子のブレーキを外してハンドリムを握った。朝食が置いてあるテーブルまでそっと押して進むと、ふわりと香る朝食と紅茶の匂い。
「砂糖、一つだけ入れて」
「はい」
テーブルの傍に辿り着けば、ロンジュンの言う通りに瓶の蓋を開け、小さなトングで角砂糖を一つ摘んで液体の中に落とした。トングを仕舞い、蓋を閉めてからスプーンで水面を掻き立てるように混ぜていく。十分に砂糖が溶けて混じったところで、ちゃぷ、とスプーンを引き抜いたとき。
その手をロンジュンが引き止めるように掴んだ。
そして白いカッターシャツの袖を指で引っ張り。
「糸が出てるよ」
「あぁ…すみません、すぐに」
「切ってあげる」
ロンジュンはそう言うと、テーブルに置いてあった裁縫箱から小さな糸切りばさみを取った。袖を引っ張られると、自然と彼の方へ糸を切りやすい位置に腕を近付ける。ショキ、と小さな音と共に、白い糸が絶たれた。
「ありがとうございます」
「ねえヘチャナ」
「はい?」
「今日も裁縫付き合ってくれる?」
彼の手から糸くずを取りつつお礼を述べるが、ロンジュンはその言葉を無視して要望を続けた。半ばお強請りのように聞こえる言葉遣いに、糸は切られたが離されぬ手。見上げてくる瞳には自分に対する信用心が滲み出ていた。断られる未来などきっと見えていない。
全く、可哀想なくらい純粋で愚かだ。
手の傷を手当したくらいで、手の甲にキスをしたくらいで、まんまと気を許してしまうんだから馬鹿みたいで可愛らしくさえなってくる。まだ世話役に就任してから五日しか経っていないが、出会った当初とは見違えるほどの表情と声色である。彼が己に見せる隙は異常だ、自分を信頼しきっているのか警戒心の欠片もない。
しかしそれが自分にとっては好都合なわけである。
普段は対象に警戒心を解かせ信用させる事を第一に動くが、その必要が全くないからだ。あれやこれやと考える時間は嫌いだったし、相手がここまで無用心ならば自分はその隙にお邪魔するのみである。
“ご子息様は何でも自分でしようとする”といつかの老人が言っていたが、多分それは心を開かれていないだけだ。でなければ現に自分は毎日彼を抱き起こしたり、服の着脱や入浴を許されたりしていない。指で唇にクリームを塗るのも、素手で裸体に触れるのも、彼は自分を信用しきっているからだ。
そして、“裁縫が得意だ”と共通点を話せば彼は更に親近感を抱いて距離を縮めてくる。
ならばどんどん自分を信用させて、依存させて突き落としてやる。
大事な跡取り息子だからとこんな部屋に幽閉するから、世間知らずになって悪い未来を招くのだ。大馬鹿者め。
「ええ、是非」
*
*
*
*
「ここを」
「……ん」
「そのまま裏に」
「こう?」
「上手です」
静かな部屋に、二人の小さな話し声。
身を寄せあう彼らの手元には、鋭利な細い針と色鮮やかな糸で柄があしらわれた綺麗な布地。薄紅色の刺繍糸で作り上げていくのは、一本の桜の木だ。
ロンジュンが縫う方向を間違えないように手の上に手を重ねて誘導していく中、気が遠くなるような静寂を破るようにヘチャンは別の話を振った。ちらりと目線は部屋の隅にある描きかけの絵画へ。手元は桜の木を完成させるために動き続けたままだ。
「あの桃の絵、続きはいつお描きに?」
「再来週。ソンウさんが来る時だけ」
「ソンウ…?」
聞き慣れぬ名前に首を傾げると、ロンジュンは付け加えた。
「姉さんの婚約者」
「ああ…」
「ここにきたらいつも絵を教えてくれるんだよ。もうすぐこの屋敷に住むんだって」
彼の口から出た家族の情報に、少しだけ目を細めた。
朝昼晩の食事も入浴も何もかもこの部屋で済ます彼は、家族と交流する時間が一秒もない。つまりは間接的に世話役も家族と対面することがないわけで、任務における“家族に上手く取り入って内側から破壊していく”という行為に移すことが出来なかったのだ。やっと聞くことが出来た家族の情報、一言一句聞き逃さずに全てを利用し、あわよくば接触まで持っていきたいものだ。
「どんなお方なんです?」
「ん〜…優しくて、ちょっと変わり者で、俺の事を気に入ってる」
「仲良しなんですね」
微笑んでそう返すと、ロンジュンは布に糸を通す手を休ませずに続けた。
「お前もきっと気に入られるよ」
「本当ですか?」
「うん。だからお利口にね」
「ご無礼のないように致します」
犬みたいな言い方しやがって、と思う反面、やっと家族に接触できる喜びには思わずぐっと下唇を噛んだ。まだ十分に時間はあるし焦っているわけではないが、今まで微塵の進展もなかった彼の身内情報には否が応にも胸が踊る。どんな風に近付こうか、どう陥れてやろうかと。
しかし、頭の中に幾つもの考えを浮かべるヘチャンの思考を、ロンジュンの声が絶った。
「ソンウさん、俺によくこう言うんだ」
「……?」
「“お前の顔は、寝る前にベッドの中で思い出す顔だ”って」
ロンジュンはそう言うと、ヘチャンの顔を見上げながら問いかけた。
「どういう意味?」
純粋で穢れを知らぬ彼の瞳が刺さるようにこちらを向き、意味を問う。ヘチャンはその言葉の真意を考えるまでもなく瞬時に汲み取ると共に、思わず手を止めて薄らと苦い表情を浮かべた。
“何だよ、ソンウってそういう奴かよ”と。
その言葉に含まれている意味が想像しているものと相違ないのであれば、ソンウはそういう類のヤバい奴ということになる。良質な教育を受けた金持ちに狂った癖の持ち主など居ないと思い切っていたのが間違いだったのだ。やっぱりどの世界にも、どの場所にもそういう奴はいるらしい。唐突な情報に頭が混乱しそうだ。
ヘチャンはソンウがロンジュンに告げる言葉の真意を分かっていながら、真実を教えることなく流暢に嘘を吐いた。
「“今日は楽しかったな”と余韻に浸る思いなのでは?」
「…回りくどい言い方」
「きっと詩的な方なんですよ」
ロンジュンは理解し難げに首を傾げると、また手元の布に目線を下ろした。ヘチャンは彼の視界から脱すると共に一気に顔を歪め、呆れたように白目を向いて溜息を殺した。
ソンウという男を一度たりとも見たことも会ったこともないが、彼の人間性というか素性というものは既に想像に易いものになっていた。嫁が居ながらその弟にまで手を出そうとする悪質な変態、それか或いは同業者。娘の婚約者となり息子の絵画授業まで任されるということは相当な人格者を装っているのだろう、そういう人間の悪事を働く証拠を集めるのは至難の業なのだ。それに万が一同業者だった場合、どの対策方法もリスクはぐんと上がってしまう。世話役と婚約者とでは持ち得るカードの数が違うのだ、下手な行動に出れば怪しまれ追放されて終わる。何しろ一番タチが悪いのは、財産目当てであれただの身体目当てであれ、標的はロンジュンであるということだ。
経験の浅さや無知さが招く察しの悪さ、人を信用しやすく依存しやすい体質のロンジュンが、自分の意志を持ってソンウの魔の手を拒否するとは思えない。きっとうまく言いくるめられて襲われるに決まっているし、それでソンウに依存先が変わってしまえば、自分の今の努力も任務も全てが水の泡になるかもしれないのだ。
「じゃあ、ヘチャナ」
名前を呼ばれると、ふと顔を上げた。
「“桃の実がよく熟した頃に、絵よりも楽しいことを教えてあげる”って」
部屋の隅に置かれた、硝子の皿の上に積み重なる三つの桃が目に入った。
「それは、どういう意味?」
ロンジュンの問いかけに、ヘチャンは目を細めつつ少し低い声で言った。
「……さぁ……僕には想像もつきません」
ならば、こちらは桃の実が熟す前に。
急がば回れ、目的は違えど早い者勝ちだ。
先手を打ってしまえばいい。
この純粋で哀れで無知な箱入り息子はきっと、導けば導くほど罠にかかってくれる。時期尚早も何も関係ない、今の彼にとって一番近しく頼れる相手は自分だ。先に自分に依存させておけば、いちいちソンウを危険視して追放しようとしたり遠ざけたりせずともロンジュンが自ら拒否の姿勢を見せてくれれば、ソンウも自分の立場を案じて手を引くはずだ。
初手から厄介な奴が出てくるとは思わなんだが、特段手を焼くこともないだろう。どいつもこいつも馬鹿ばかりだし、自分は良くも悪くも頭が回る。それで幾度も人を陥れ金を騙し取り、この年齢になるまで何とか生きてきたのだ。飢餓状態になるくらいなら、極寒や灼熱の中で苦しみながら生きるくらいならと。今更罪悪感も畏怖感も何もない。情がわくなど、ありもしない。
ヘチャンはそっとロンジュンの手に手を重ねた。大きさの違う手は包み込むように握られ、そのまま糸を通す場所を間違えないように誘導すれば、ロンジュンはそれに従って手を動かしていく。
この小さくて弱い坊ちゃんは、いずれ自分の手によって死ぬ。
なんて、哀れなんだ。
「ヘチャナ」
「はい?」
「なんで笑ってるの?」
「……お会いするのが、楽しみだと思って」
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!