ドワーフ兄弟から授かった薬のおかげで、胸の激痛は多少和らいでいた。
だが、その薬効すら一瞬で吹き飛ぶほどの殺気が、吹雪の交じる極北の森を割った。
頭上の雲が黄金色に割れ、数多の光の柱が地上へと降り注ぐ。
光の中から現れたのは、白銀の鎧を身に纏い、背に純白の翼を羽ばたかせた天界追討軍の部隊。
その数、およそ五十。
例え神の権能といえど、血眼の天を欺くことは難しい。
ロキは不敵に鼻で笑い、袖口から一筋の短剣を覗かせる。ロキにはまだ余裕があった。
だが、ルシファーは息を呑んだ。
全身の皮膚が泡立つような圧迫感。
かつて己の手下として従えていた天使たちの群れが発する聖なる気配に、弱り切ったルシファーの身体が拒絶反応を起こしたのだ。
隊長格の天使が長槍を構え、音速を超えて肉薄する。
ルシファーは反射的に腰の剣を引き抜き、払った。
全盛期であれば、剣圧だけでこの程度の天使など数百体まとめて微塵に切り刻んでいたはずだった。
ガキィンッ!!
激しい金属音が響き、弾き飛んだのはルシファーの方だった。
雪原を何メートルも激しく転がり、背中の折れた翼が悲鳴を上げる。握力は失われ、手首からは血が滲んでいた。
天使が嘲笑い、追い打ちの光槍を突き立てんと頭上から落降してくる。
右胸の烙印に力を込めた。
戦友たちの遺灰から泥縄式に引き出した暗黒の魔力を剣に纏わせ、必死の思いで迎え撃つ。
ズドヴンッ!!
衝撃波が雪を巻き上げる。
ルシファーは辛うじて敵の攻撃を流したが、その代償は大きかった。右肩の肉が裂け、鮮血が白銀の雪を赤く染める。息は途切れ、視界がチカチカと明滅する。
自分は、弱い。
あまりにも、無力だ。
かつて自分を信じて同じ道を選んだ同胞たちの命を全て喰らい、惨めに生き延びた結果がこれなのだから笑ってしまう。
神の秩序に背いた魔王ルシファーが、今や天使に追い詰められ、這い回っている。
悔しさと、無力感と、散って行った悪魔たちへの申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。
今の自分は、天に刃を向けるどころか、自分の命一つ守ることすら満足にできない。
突如、ルシファーの前にロキが滑り込んだ。
瞬間、天使たちの足元の雪が牙を剥く巨大な狼へと姿を変え、追討軍の陣形を一瞬で食い荒らした。
幻術と神の魔法が織りなす圧倒的な手際。
神威が残っているロキの戦闘力は、まさに圧倒的だ。
ロキがひとたび遊んでやれば、五十の追討軍は数分のうちに散り散りになって逃げ出していった。
静寂を取り戻した雪原で、ロキは短剣を懐に収め、血まみれで倒れ込むルシファーへと振り返った。
ルシファーは泥と血に汚れた手を見つめた。
悔しさに唇を噛み締め、血が滲む。
ロキは冷酷に、しかしどこか満足げに目を細めた。
ルシファーは深く息を吐き出し、震える足でゆっくりと立ち上がった。
折れた剣を鞘に収め、血を拭う。
瞳から誇りは消えていない。むしろ、己の弱さを認めたことで、その炎はより一層低く、暗く、激しく燃え上がり始めていた。
己の惨めさと弱さを骨の髄まで噛み締めた魔王は、神の背を追い、女神の隠れ里への足取りを強めた。
追討軍の襲撃を振り切り、吹雪の最奥に隠された不自然な木々をくぐり抜けると、そこには雪国とは思えない、温かな光と青々とした緑が広がる小さな楽園があった。
中央には大樹がそびえ、枝には瑞々しく光り輝く果実が実っている。
イズンの領域「黄金の林檎園」
ロキが緊張感のない声を上げると、大樹の木かげから小走りで駆け寄ってくる人影があった。
北欧神話「イズン」
黄金の林檎園の守護神
権能【永遠の春】
神々の泥沼から逃げ出した世捨て神という暗いイメージとは程遠く、想像以上に元気ハツラツとした様子だ。
ロキがひょいと退くと、イズンの視線がルシファーへと向けられた。
血と泥に汚れ、右肩から血を流しながらも、どこか神聖さを残す美貌の青年。
ルシファーは息を整えながら、イズンをすっと見下ろした。
イズンはフンと横を向き、あっさりと背を向けようとした。
ルシファーは絶句した。
かつては彼の一言で全天の天使がひれ伏し、地獄の悪魔たちが畏怖した。
先ほど己の弱さを実感したとはいえ、根底に染みついたルシファーの傲慢さは、そう簡単に捨て去れるものではなかったのだ。
それが地上のちっぽけな(とルシファーは思っている)女神に一蹴されたのである。
ズキッ!
右胸の烙印と右肩の傷が激しく疼き、ガクリと膝をついた。
倒れ込んだルシファーの姿を見て、イズンは焦って駆け寄った。
近くで見ると、彼の体がどれほど限界を超えているかが一目瞭然だった。
右胸に刻まれた凄惨な呪いの痕、ボロボロに折れた翼、そして何より、深い喪失感を宿した黄金の瞳。
イズンは深いため息をつき、頭を抱えた。
イズンは手に持っていた籠から、黄金に輝く小さな果実を取り出すと、屈み込んでルシファーの唇へと押し当てた。
ルシファーが黄金の林檎を噛み砕くと、甘やかな汁が喉を通り、瞬く間に全身の細胞へ広がっていった。
あまりの密度の生命力に、ルシファーの体が大きく跳ねる。
ボロボロだった皮膚や傷口が急速に塞がっていく。右胸の痛みが少し和らぎ、生のエネルギーが彼を包み込んだ。
当然、全盛期には程遠いものの、先ほどまでの死に体からは劇的に回復し、自力でしっかりと立ち上がれるほどには身体が軽く重厚になっていた。
ロキがニヤニヤしながら尋ねる。
ルシファーは自らの両手を見つめ、驚きを隠せない様子で息を吐いた。
ルシファーが固まった。
ここまでの流れであれば「彼女の協力」を取り付けて共に旅立つ...というのが彼の思い描いていたシナリオだったからだ。
イズンは呆れたように首を振る。
ルシファーが真剣な面持ちで迫るが、イズンは一歩も引かない。
完全に平行線である。
ルシファーは助けを求めるようにロキを振り向いた。
ロキは待ってましたとばかりにニヤニヤしながら、イズンとルシファーの間に滑り込む。
イズンが警戒して目を細める。ロキは不敵な笑みを深めた。
イズンの顔色が瞬時に蒼白になった。
ロキの言っていることは、決して脅しやハタリではなく、冷酷な神々のやり口そのものだったからだ。
かつての魔王すらロキに引き気味の視線を向ける。
しかし、ロキは意に介さずイズンに手を差し伸べた。
イズンは唇を噛み締め、大樹を見上げ、それから目の前に立つ二人を交互に見つめた。
片やドクズ、片や最重要指名手配犯。
イズンは頭を抱えて、盛大にため息をついた。
イズンは足元にあった小さな背負い籠を拾い上げると、大樹から黄金の林檎を幾つも手際よく摘み取り、籠へ詰め込んだ。
ぷいと横を向いて言い放つイズンを見て、ルシファーは呆然とした後、かすかに口元を緩めた。
こうして、世捨て神の青春の女神イズンが、ロキの脅しによって一行に加わることとなった。
ロキは満足げに手を打つと、南の方向を指差した。















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。